第5章 謙太(1)ヘッドライト
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/10/30

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第5章 
謙太(1)ヘッドライト

 

 ヘッドライトで照らす路面は夜の海のようだと謙太は思う。ダンデム・シートで自分に身を委ねてくれる菜々子と出会ってすぐに、自分は有頂天になった。
 こんなにしなやかに、心も体も寄り添える相手がいたのかと感じた。
 はじめてオートバイのタンデムで出かけたのは、菜々子の希望で夜の首都高だった。川崎辺りの工場地帯の煙突から立ち上る夜の煙を眺めて、
「カオスだな。こういうの、魅力あり」
 風を受けながら、耳元で大きな声で言った。

 

 それからも菜々子は、いつも自分にとって「魅力あり」、と思うものだけを探して生きている気がする。菜々子がそう感じる景色や物や人までがだんだんわかってきて、それを一緒に追いかけていたい。なのに、今、マンションまで来ると、自分の体に回されていた菜々子の腕はするりと解かれた。

 

 

 どんな時にも気持ちを昂らせてくれるヘッドライトを、すぐには消さなかった。その先の海が消えてしまうような気がしたから。
 菜々子は、オートバイの周囲に広がる灯りの中に降り立つと、ヘルメットを取って、こちらに手渡す。
 謙太もヘルメットを外すが、
「じゃあね、今日はありがとう」
 顔を近づけるわけでもなく、ただそう言って小さく手を振ると、マンションの外についた螺旋階段を駆け上がっていった。足音だけがこんこんと響く。こちらを振り向くこともしなかった。

 

 いつもの気まぐれとは明らかに違う、菜々子からの淡白な拒絶を、その華奢な背中に感じた。もう一度出て来てくれないかとしばらく見上げていたが、影だけが自分の足元から伸びている。
 菜々子の心が、手のひらからこぼれ落ちていく気がした。べたっとした関係ではなくても、会わなかった時間は、いつでもすぐに埋まる二人なのだと思っていた。
 菜々子の扉はいつでも自分には開いていて、自分は風になって彼女に会えるように思ってきた。
 けれど、その扉は重たく閉ざされている。今日だって、自分なりに節度の限界をぎりぎり超えないようにして、ようやく会えたと思ったのに、菜々子はあっけなくまた一人の部屋へと帰っていった。

 

 

「うち、寄ってく?」
 はじめてのデートのときの上目遣いが忘れられない。大きな目でこちらがどぎまぎするのを試すように見て、腕を引っ張って部屋まで連れていってくれた。菜々子からキスされた。後になってそのときのことを、こう言った。
「謙太といると、もどかしくなりそうだったから」
 もう菜々子に、もどかしい思いはさせないと決めたのに、それは独りよがりだった気もする。
 今日は、話したいこともあったのだが、と謙太は思う。いきなり階段を駆け上がって、呼び鈴を押したらどうなるのだろう。菜々子は、そういうのを嫌がるのだろうな。昔の彼氏を、それで嫌いになったとも言っていたから。

 

 ふたたびヘルメットをかぶろうとするとメールを受信した。期待して画面を見やると、同じ学部の高畑沙奈江(たかはたさなえ)だった。
〈やほ、しばらく大学で見かけないけど元気? 建築見学の演習、もうどこにするか決めた?〉
 沙奈江が何かにつけて自分を誘ってくるのには気づいていた。気のせいかもしれないが、好意を寄せられている気がして、むしろ遠ざけてきた。

 

 理工学部は女子が少ないのもあって、朗らかで柔らかい印象の沙奈江は人気がある。
〈まだだけど、多分、日光かな。ぶらっとバイクで行ってくるよ〉
〈やった、後ろにひとり乗せる気ない?〉
 ヘルメットを手にしたまま、考える。
〈まだ予定が決まらないし、天気のいい時にひとりで気ままに行ってきます。沙奈江のこと誘いたい奴なら、いっぱいいると思うよ〉
 そう書き送ると、少しの間があり、
〈はーい、わかった〉
 という返信とともに、拗ねた顔の犬のスタンプが送られてきた。
 そう言えば、自分にだってそんな演習の課題も残っていたことを思い出した。

 

 

 菜々子はしばらく法医学教室に入り浸るつもりだと、ジヒョンの家で言っていた。それには、謙太の助けは要らないようだ。
 もしかしたらもう、自分から離れていこうとしているのだろうかと考えると、思考回路は石ころになって、坂道をころころ転げ落ちていきそうだ。
 そうではなくて、菜々子は今両親のことで頭がいっぱいなんだ。だから、助けになりたいなんて気持ちはおこがましいんだと、自分に言い聞かせる。
 だけど、やっぱりわからない部分もある。
 もしも自分に同じことが起きたら、親のことでそんなに深刻に悩むだろうか。むしろ親のことなど考えるのはやめて、菜々子や友人たちと過ごす時間に没入していきそうな気がするのに、それは家族の平穏を疑ったことがないからなのだろうか。
 家族についての優先順位が低いのは、考える必要がないからなのか。

 

「どうせ、謙太にはわからないよ」
 菜々子がそう呟いた時の翳った表情を、今更思い出した。それを当然のように責めてしまった自分も。
 オートバイにまたがり、サイドスタンドを外す。
 左足でギアを一速に蹴り込むと、マシーンの鼓動が自分と一体となって、一瞬にしてその場を置き去りにした。今日は、そう思いたかった。

 

 

〈尊くんから、お手紙は来ません。
 私、冬休みになったら九州へ行ってみようと考えてる。やっぱり、絶対会いたいから。行っていいよね?〉
 ジヒョンからのメールは、十日ほど経って、三人のグループラインに届いた。
 週末でまだベッドの中にいた謙太は、まず菜々子からの返信を待った。
 昼の間に既読は2になった。つまり菜々子も見たはずなのだが、その後の画面は空白のままだ。
〈もちろんいいと思うよ。何なら、三人で行きたいね。菜々子はどー?〉
 謙太はそう送った。それに対しても既読はまた2、となったが菜々子からの返信はない。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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