第10章 ポゴシポ(2)夕映え
谷村志穂『過怠』

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第10章
ポゴシポ(2)夕映え

 

 ソウル市メトロ9号線の吊革につかまっている。
 両脇には、今日はじめて会ったばかりの、二人の女性が立っている。
 右の女性は白いコートを着ていて、肩までの髪の毛先がエレガントに弾んでいる。左の女性はグレーのジャケットを着ていて、ショートカットにパンツ姿で凛々しい印象だ。菜々子のスーツケースは、彼女が持ってくれている。
 三人は、なんとなく緊張感が解けないからか、または言葉も通じないからか、先ほどから黙ったままだ。メトロの車体が傾くと、時折肩をぶつけ合って少しぎこちない。

 

 

 夕方に到着した金浦空港の窓からは、黄金色の夕映えが広がって見えた。
 そこで菜々子は、ジヒョンの二人の姉である、彼女たちに迎えられた。
「アンニョンハセヨー」
 その時は、二人とも笑顔だったのに、菜々子が韓国語を何一つ話せないからなのか、以後は身振り手振りだけで、地下鉄まで誘導された。
 話さないのが気詰まりかと言えば、そうでもなかった。菜々子には初めての土地だ。日本人と似た顔立ちの人たちが、違う言葉で話している。皆、表情豊かで活気があるように見える。不思議な懐かしさを覚えるのは、何も菜々子の特別な事情からではないようにも思えた。うまく言えないが、その場にいる人たちから感情が溢れてくるような、人懐こさが漂っていた。何も話さないジヒョンの姉たちからも。

 

 日本では、ちょうどゴールデンウイークが始まったばかりだ。この機会に、ジヒョンも一緒に韓国に帰国しないものかと少し期待していたのだが、彼女は当初からの予定通り、尊に会いに九州行きを選んだ。それにはなんの屈託もなく、韓国では二人の姉を頼るよう手配してくれた。
「お姉さん、二人もいるから、きっと菜々子、大変なことないよ」と言った。
 さらにジヒョンは、休みの間に尊と読む本を選びたいと、菜々子を大学図書館へと引っ張っていった。これには幾分、閉口した。
 確か、こんなやり取りをしたのだ。
「菜々子、何か本を選んでくれないか?」
「私は尊くんのことがわからないし、どんな本がいいかなんて選べないよ。そもそも、そういう押し付けがましいことが苦手だから」
 そうまで言うと、ジヒョンは珍しくむきになった。
「菜々子が好きな本を、尊くんと一緒に読みたいから、私、頼んだ。菜々子の好きな本がわかれば、尊くんも菜々子を少し知ることができる。会えなくても、わかるでしょう? なぜ、いけない?」
 ジヒョンの気持ちを理解したわけではないが、菜々子は自然科学の棚へと進んだ。そこに、懐かしい一冊を見つけた。レイチェル・カーソンという海洋生物学者が書いた『センス・オブ・ワンダー』という本だ。高校生の頃に幾度も繰り返し読んだ本だ。
「あ、この人の名前は、確か知ってる」と、ジヒョンも口にする。有名なのは、『沈黙の春』という環境汚染を綴った大作だが、『センス・オブ・ワンダー』の方は、五十ページと少ししかない。幼い甥っ子に贈ったとされる、大好きな海辺で過ごした、二人の思い出が綴られた本。彼女の遺作となったそうだ。

 

 

 何度も読んだページを開くと、ジヒョンにも見せた。
 甥っ子の名前はロジャー。カーソンは真夜中の海に、幼いロジャーを毛布に包んで連れ出す。
 夜遅くても、嵐の夜でも、真っ暗な海であっても、彼女は幼い甥に、様々な海を見せる。

 

〈去年の夏、ここでむかえた満月の夜に、ロジャーは自分の言葉で伝えてくれました。わたしのひざの上にだっこされて、じっと静かに月や海面、そして夜空を眺めながら、ロジャーはそっとささやいたのです。
「ここにきてよかった」〉

 

 菜々子は、なぜかそのシーンがとても好きだ。二人が、荒々しい自然を前にじっと過ごしているような時間の描写に、惹かれていた。
 その左側のページにある夜の海の写真は、どこか湯河原にも似ている。蒼い空に、満月が浮かんだ写真だ。
「尊くんにも、気に入ってもらえるとうれしいけど」
 はじめは渋々選んだくせに、菜々子もそう言っていた。ジヒョンといると、菜々子の頑なな心の扉が開かれていくのを最近、感じる。

 

 メトロの車両では、抑揚のある韓国語の賑やかな話し声が響いているが、窓の向こうに広がる景色は、とても静かで穏やかに見えた。
「大きな川」
 市中をゆったりと流れる川が目に留まる。夕日に反射して、鈍く銀色に光って見える。
「カワ チョンチャン?」
 右に立つ上のお姉さんが川の名前を口にしてくれたようなのだが、よくわからない。
 大きな川、どこから来て、どこに流れ込んでいるのだろう。どの時代から、ここをこうして流れているのだろう。生き物みたいな川。
「ディス リバー、この川は近年になって、ソウルに蘇った川です」
 左に立つショートカットの下のお姉さんが、片言の英語でそう話してくれた。人のことは言えない。菜々子の英語も、超自己流だ。

 

 

 メトロを下車して、菜々子の泊まるビジネスホテルまで案内される。チェックインまでを、彼女が手伝ってくれて、
「トゥモロウ モーニング、十時にまたここで」と言って、二人が帰ろうとしたので、菜々子は慌ててスーツケースから手土産を取り出した。
 何にしようかジヒョンにも相談したのに、何もいらないと言い張るので、一旦帰った湯河原で、昔から作られている地味なかるかん饅頭の小箱を五つ買ってきた。
 それぞれに手渡した。喜んでもらえるかわからないが、生地に大和芋を練り込んである美味しい饅頭だ。それを英語でどう伝えるかすぐに頭が回らない。
「ジヒョンのフェイバリットのお菓子です。ふわふわしてる」
 最後は日本語で言うと、姉妹は表情をぱっと明るくしてくれた。
 めいめい礼を口にして戻っていく後ろ姿を見送ると、二人が急に引き返してきた。
「夕飯はどうするの?」
 実はすごく空腹で、近くのコンビニにでも駆け込むつもりだった。
 返事に窮し、腹の辺りに手をやると、
「ノーウエイ! レッツイート!」
 と、上のお姉さんが言ってくれた。

 

 入ったのは、ホテルの裏手の焼肉店だ。焼肉と言っても、脂身の多い豚肉の厚切りをじっくり焼いたもの。ハサミで切って、野菜に包んで食べるようだ。
 店は大変な活気で、煙が上がり、テーブルには焼酎の緑色の瓶が所狭しと並んでいる。
 かりかりに焼き上がった肉を、上のお姉さんが切って、色々な葉野菜に包んで手渡してくれた。
 菜々子が受け取って口に含む。
「何これ、美味しい」
 思わず、声を漏らすと、二人は急に相好を崩し、
「すきですか?」
 と、次姉に日本語で訊かれたので、うなずく。
「これは、サムギョプサルと言います」
 今度は片言の日本語だ。それから、焼酎にビールを混ぜて、テーブルの上でどんと弾き、
「これは、爆弾」と、手渡してくれた。
 菜々子はうなずいて、二人に笑いかけた。 
 髪の毛を結んで食事に向かう長姉は肉を慎重に焼きながら、切り分けて、皿にころんと載せてくれる。
「たくさん、たべます」
 と、言って笑った顔はジヒョンと同じで目尻が垂れて見えた。 
 三人で、急に言葉は構わずわいわいと話し始めていた。言葉は通じなくても、温かさが伝わった。

 

 

「ジヒョナが、菜々子にあまりにファミリアにしては、馴れ馴れしくしてはいけないと何度も言ってきた。だから、遠慮してたけど、もういいね」
 菜々子は自分でも爆弾を作ってみる。
 グラスの中に生まれる泡が、その都度浮き上がり沈んでいく。
 ジヒョンは本当は韓国にはこうして楽しいことがいっぱいだったはずなのに、日本で過ごす時間は寂しくなかったろうか。そう改めて想像していた。

 

 三人の様子を、次姉がジヒョンにカカオトークで送っているようだ。
 けれど、ジヒョンからは、すぐに返事がない。
「ジヒョナ、タケル」
 長姉の言葉から聞き取れたのは、その二人の名前だ。多分、ジヒョンが尊とのおしゃべりに夢中なのだろうと言って少し案じているようだった。
「明日は、うちのお母さんも一緒になる。海の町にいく。たぶん、菜々子、そこで会える」
 菜々子は、二人の顔を、揺れる瞳を、順繰りに見つめた。

 

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谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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