BW_machida
2021/06/11
BW_machida
2021/06/11
※本記事は連載小説です。
最終章(2)青春の路
まるで、玩具箱をひっくり返したような街だと菜々子は見上げる。
ジヒョンが高校時代を過ごしたというソヒョンの街を、地下鉄に乗って訪ねた。彼女の二人の姉とは午後に待ち合わせをしているが、その前にぶらっと一人、歩いてみたいと思った。
地下鉄の駅からエスカレーターに乗り地上へと上がっていくと、その街が突如開ける。幅の広い、だがその両脇にぎっしりとビルが詰まった景色。どの建物にも、無数のカラフルな看板が溢れ出すように掲げられている。
路面には、食べ物や衣類を売る屋台がどこか無節操に点在する。
串に刺さったおでんを食べながら歩く子どもたち、腕を組んで歩く女子高校生たち。
「ジヒョンはどういうところで遊んだの?」
来る前に質問したら、ソウル郊外にあるこの新興都市の名前を教えてくれた。
まだ歴史が浅く、ジヒョンのような若者たちが一緒に育てていった街なのかもしれない。
「PCルームやネットカフェでよく遊んだよ」
そう言っていた。彼女は韓国の壮絶な受験勉強の合間を縫って、これらのビルの中にある好みのPCルームで対戦ゲームをして遊び、ネットカフェで欲しい情報を探したのだ。日本の大学の情報や、もしかしたら尊のことも探していたのかもしれない。
時には映画を観て気分転換をしたり、コイン式の電話ボックスのようなカラオケボックスで唄ったりしたろうか。楽しそうなティーンエイジャーたちの姿に、高校時代のジヒョンを重ねる。一緒に唄ってくれた「キューティーハニー」だって、きっとここで覚えたはずだった。
ジヒョンにも、そんな青春時代があったのだ。
ジヒョンの思い出の街を歩きながら、もしも自分があのソン家に生まれていたら、どんな青春時代を過ごしていたのかと想像を巡らせる。例えばこのソヒョンにやってきたろうか。韓国の厳しい受験戦争で生き残れたろうか。
「みなも」の手伝いをしていたハリンは、一体、どんな子ども時代を過ごしたのだろう。休暇なのに、店の手伝いをしていたハリン。友人や彼氏とは出かけないのだろうか。彼女が宮本家に生まれていたら、菜々子のように野心を持って外に飛び出たりせず、旅館の手伝いをしていたかもしれない。
考えても仕方のないことを思い巡らすのに、このカオスの渦巻くような賑やかな街は向いていると、菜々子は思った。
ソヒョンの街は、好きのバロメーターで言うと半分くらい。屋台で食べるなら、おでんより、トッポギの方がもっと好き。
韓国の屋台は面白い。あちらこちらの店先で、湯気を立てて誘ってくる。それらが人々の熱気そのものに見える。
カラオケは日本のような広いところがいいけれど、百円くらいで唄えるのはすごい、などと勝手に頭の中で指標を作っている。
日本との違いや似ているところを一つ一つ思い浮かべながら、でも何より、ここでは人が元気で、その笑顔から人懐こさが滲み出してくるようだと感じる。
「あなた、日本人? この靴下、お父さんやお母さんにお土産、どう?」
屋台とも呼べないウールの靴下売りがいる。ビニールシートにウールの靴下を並べて、木箱に座って販売している。
デザインは少し古臭いけれど、なかなか質のいい靴下だ。しゃがみ込んで手に取っていると、
「たくさん買う、安い」
と、パーマヘアの女店主がにっこり笑う。
「靴下ぁ、たくさんいるねー」
屋台の店主は、三足まとめて持ち上げる。
「これ、じゃあ、六足ね」
と、指で示す。
「おう、おう」
と、まとめているので、
「おまけして」
楽しくなって、そう頼んでみた。
「おまけ、だめね。コウキュウヒンよぉ」
支払いをして、
「お願い。七足にして」
指で示すと、店主は渋い顔で、プラスチックの袋にニットの暖かそうな、かといってやはり少し時代遅れのようなデザインの靴下をもう一足、ぎゅうぎゅうに詰めて手渡してくれる。タビケンの人たちには、これを配ろうと思う。
リュックに靴下を収めて、また歩き出す。これは旅だと菜々子は思った。自分に流れ込んだ、未知なるものに出会うための旅だ。
午後一時、ジヒョンの二人の姉たちとの待ち合わせは、ソヒョンの駅に直結した百貨店の一階フロアだ。姉たちも少し買い物をしてきたようで、手にショッピングバッグを提げている。
「菜々子、アーユー タイヤード?」
次姉が覗き込むので、首を横に振る。
街に親しんだ様子に安心したのか、二人の姉もまた菜々子の両腕にそれぞれ腕をかけて、歩き出す。
ジヒョンの通った高校へと連れて行ってくれると言う。先生ももう、待っている。ジヒョンはどれだけいい子だったのだろう。本人もいないのに、彼女の母校を訪ねさせてくれるなんて。
そうか、姉たちは、百貨店で先生への手土産を用意してくれていたのだ。
こんなに良い人たちに出逢わせてもらえて、それが自分に流れ込んだ血のおかげだとしたら、自分は決して不幸なんかじゃないと思った。ジヒョンの姉たちの柔らかい胸の感触や、匂いを全身に感じる。
そしてふと、昨日の海の波音を思い出した。たぶん、きっといつでも思いだすことができる。首元でネックレスが揺れているときには。
ジヒョンは尊の目線に合わせて腰を屈めて、姉たちからのカカオトークを見せる。指先で順繰り画像を送り、
「信じられないよ。私の先生にまで会ってるよ、菜々子」
高校の美術室に、菜々子が座っている。
丸めがねに、モヘアの茶色いカーディガン姿の懐かしい先生と一緒の写真だ。
後ろには、先生の新しい作品だと思われる韓国画が展示されてあった。
ジヒョンは、高校時代、美術部に在籍していた。三年になると、受験勉強との両立で作品作りは難しくなったが、美術の先生は時折訪ねた。高校で教えているだけではなく、先生の絵は日本の画廊でも販売されている。線の柔らかさや、それでいて漂う緊張感は、ジヒョンがずっと憧れてきた竹久夢二の絵とも通じるものがあった。自分には結局、絵を描く才能はなかったが。
「どんな高校生だったのか、僕も想像してみよう」
オリヒメの言葉は、話し言葉とも書き言葉とも違う。尊の目が語る言葉だとジヒョンは感じている。
尊には、メールでやり取りをする友人が、それにガールフレンドもたくさんいるみたいだ。時折、尊に届くメールがジヒョンの視界にも入ってくることがある。親密なやり取りに見えるのは、尊が目の動きだけで必死に伝え合っている言葉だからだ。
菜々子が高校時代の通学路を歩いている姿は、動画で送られてきた。
木立ちからの落ち葉が敷き詰められた道で、通学時にはよく木漏れ日が躍っていた。
「ここは、とても好きな路。夕陽の時間だ。特に秋になると、落ち葉で足元がさくさく音を立てる。考え事をして歩いたよ」
尊にもう一度会いたいという思いの強さで、ジヒョンは受験勉強をやり通せた。
けれど、本当にそうだったろうか。韓国で過ごす時間の居心地の悪さ、彼氏なんて作る余裕のなかった青春期の心の逃避の先を、尊にしていたのかもしれない。
幼稚園の頃だって、うまく友達が作れた方ではなかった。韓国に帰ったからでもなかったのかもしれない。
ただどうあれ、その路を歩いた時にも、何度も尊の姿を思い描いていたのは事実だった。尊の手の温もり、小さな男の子にだって宿る腕の力の強さ、きっとそのまま大人になってセクシーで魅力的な男になっていると信じていた。
ずっと車椅子に座っている尊の姿は、想像とは少し違っているけれど、あの頃から変わらぬまっすぐな強さと朗らかさが今の尊にはある。
「尊くんは、私を探していなかったんだね」
オリヒメが黙ってしまう。
「一度も、少しも思い出さなかったのかな」
なお返事がなく、
「少し眠くなったな」
と、オリヒメが言い、
「ずるいでしょう」と、続けてきた。
「ジヒョン、君は綺麗になったけど、拗ねた顔は昔と変わらないんだね」
「どんな顔? 私のこと、尊くんは本当に覚えている?」
「ジヒョン、笑ってほしいと思う僕の気持ちも、変わらないんだ」
ゆっくりそう返事があった。
眠いのも嘘ではないのかもしれなかった。だったら尊を休ませないといけないのに、ジヒョンは尊の手を握る。
「眠りながらでいいよ。私、韓国にいた時はね」
尊のための子守唄代わりに、ジヒョンはここまで辿り着いた道のりを話し始める。菜々子が青春の路を歩く姿を、目の裏に浮かべながら。
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