BW_machida
2021/03/08
BW_machida
2021/03/08
日本の現役世代は、壮年と若年、大卒と非大卒、男性と女性など、それぞれの生きている状況で見ている世界が違うらしい。そんな環境において「性」の常識を共有するのは難しいかもしれない。でも、そうは言っていられない。いまや性に関する知識は、責任ある大人として生きていくためには必須のものなのだ。性について無知でいることは、他者とのコミュニケーションに問題を生じさせるばかりか、相手を傷つけてしまいかねない。
著者曰く、どうやら日本の性教育は「まずい」らしい。たとえば性教育のメイン教科であるはずの保健体育で性についての知識が十分に取り扱われていないこと、その代わりに家庭科が補完的な役割を果たしていることや、ひとりひとりが自分のカラダ、性、生殖に向き合う必要がある時代に沿うかたちで性教育が進展していない背景などが、日本が性教育で世界に取り残されつつある状況を作り出している原因だと著者は指摘する。
そうした中、いま日本の性教育の現場で必要とされているのが「包括的性教育」だ。包括的性教育とは、セクシュアリティの認知的、感情的、身体的、社会的諸側面のカリキュラムをベースにした教育と学習プロセスのこと。子どもや若者たちの健康とウェルビーイング(幸福)、尊厳を実現させるための知識やスキルなどを身につけさせることを目的にしたものだ。彼らの選択が自分と他者にどのような影響を与えるのかを考え、与えられた権利を守り、理解することを目指したこの性教育のガイダンスの定義は、日本で現に行われている性教育ではたしかに補えていないのかもしれない。
戦前の日本にも性教育は存在していた。1890年代から1910年、学生の間で花柳病(性病)が蔓延する。「学生風紀問題」が騒がれ医師たちが立ち上がり、1930年代には「純潔教育」という言葉が使われるようになった。学校での本格的な性教育が始まるのは、第二次世界大戦後だ。1947年に文部省純潔教育委員会が設立され、一度は性に関する内容をまとめた単元が作られるが消滅、1970年代前半頃まで性教育の低長期がつづく。小学校で本格的な性教育が始まるのは1992年、日本でもエイズ問題が生じるようになってからだ。90年代を通して進展したかと思われた性教育だが、2000年代に入ると特別支援学校の性教育実践の批判をはじめとする性教育バッシングが起こる。
もちろんジェンダー差別や性暴力といった問題は誰もが真摯に受け止めるべきものだ。そのうえで著者は、誰もが性を楽しめる社会を作ることの大切さにも触れている。
「性的な快楽や喜びを得ることは権利だ。しかし、性的な快楽や喜びを得るために、正しく同意を取らずに、誰かを傷つけてはならない。また、正しい知識を持たずに性的な快楽や喜びを追究してしまい、自分や他人の人生や尊厳を傷つけてはならない。」
性の問題に向き合うことは、自分自身のカラダを知ることであり、愛する人を尊重し、子どもを守る行為でもある。著者は、本書を性に疎い男性向けに書いたそうだが、性の話題の中心にいるのは男性だけではない。性の問題が頻繁に取り上げられる今こそ、男女問わず、すべての年代の読者に手に取ってほしい一冊だ。
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