インテルといえばメモリ、メモリといえばインテル――すべてはインテルが発明したMPUから始まった
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メモリ企業として生まれたインテル

 

現在では、家電やスマホなど、様々な耐久消費財から産業用ロボットなどの生産材に至るまで、マイクロプロセッサ(MPU)が組み込まれています。

 

現在の産業は、このMPUナシではもはや成立しないといってよいでしょう。

 

例えば、多くのスマホにはQualcomm社のチップが組み込まれていますし、人工知能の制御にはNVidia社のチップが多く使われています。

 

このように、現在ではインテル以外の多くの企業が、用途に応じてそれぞれ特化した様々な種類のMPUを出しています。

 

しかし、それらの原型は、インテルが1970年代初頭に発明したMPUにさかのぼります。

 

つまり、ここからすべてが始まったといっても過言ではありません。

 

インテルによるMPUの発明は、その後の産業に極めて大きな影響を与えました。

 

そして、MPU誕生後のごく早い時期に、それをCNC(コンピュータ制御)装置へ導入して国際競争力を飛躍的に高めたのが、日本の工作機械産業だったのです。

 

インテルとはどんな企業か

 

では、世界に大きな影響を与えたMPUは、その初期にどのような経緯でCNC装置に組み込まれるようになったのでしょうか。

 

それを知るためには、まず、MPUを世界で初めて開発したインテルのことを知る必要があります。

 

インテルは、フェアチャイルドセミコンダクター社を退社したロバート・ノイス(Robert Noyce)、ゴードン・ムーア(Gordon Moore)らによって1968年7月に設立されたベンチャー企業です。

 

ロバート・ノイスが初代CEO(1968~1975)、ゴードン・ムーアは2代目CEO(1975~1987)です。

 

歴代CEO別にインテルのざっくりとした歴史的見取り図を描くと、ノイスの時代にインテルは半導体メモリのトップ企業になり、ムーアの時代に半導体メモリからMPUへの転換が進みました。

 

ノイスは半導体集積回路(IC)の発明者の一人であったことからもわかるように、半導体技術の第一人者です。もう一人の発明者といわれているのはジャック・キルビー(Jack Kilby)です。ちなみに、キルビーは2000年にノーベル物理学賞を受賞しています。

 

さて、その巨星ともいうべきノイスが設立したインテルは、元来、メインフレーム・コンピュータで使用されていた磁気コアメモリを、DRAM等の半導体メモリに置き換えることを目指して設立された企業でした。

 

磁気コアメモリは、小さな磁石をたくさん並べ、その磁力を利用して「0」と「1」を蓄える仕組みです。

 

当時、メインフレーム・コンピュータの世界では、この磁気コアメモリが大量に使用されていたのですが、それを新しい半導体技術を使って置き換えられないかを考えたのです。

 

これはメモリの技術体系を磁気から半導体へ変えることを意味します。そして、この技術転換期を狙って設立された企業がインテルだったのです。

 

インテルといえばメモリ、メモリといえばインテル

 

ここで、技術的なことを少しお話ししましょう。

 

当時、半導体技術は進化して集積度が上がっていました。一枚のシリコン・チップの上に多くのトランジスタを載せることが可能になっていたのです。

 

載せられるトランジスタが増えるということは、低コストと高性能という二つの大きなメリットをユーザーにもたらすことになります。

 

一枚のシリコン・チップの上に載せるトランジスタが多かろうと少なかろうと、チップ一枚当たりの単価は変わりません。したがって、多く載せたほうが低コストになります。そして、より多くのトランジスタを載せることでトランジスタの間隔を狭めることができれば、電子信号をより早く伝達でき、高性能につながるのです。

 

しかし、ここで大きな問題があります。

 

この技術が、一体、何に使えるのか、この技術が、一体、どのような用途があるのか、なかなか見えなかったのです。

 

そしてロバート・ノイスとゴードン・ムーアが辿り着いた答えは、コンピュータ内部で記憶装置の役割をするチップを作ることでした。チップの上にできるだけ多くのトランジスタを載せ、記憶装置の役割をさせることを考え、このアイデアを実現させるために設立されたのがインテルだったというわけです。

 

1968年に最初に出した製品は64ビットメモリでした。その後もインテルは高性能チップの開発に力を注ぎ、1969年には256ビットメモリを開発し、さらに1103という名称の1024ビットメモリも開発しました。これは大きなヒット商品となり、インテルは当初の狙い通りの成功を収め、半導体技術を使った半導体メモリは産業として定着することになります。

 

この意味で、DRAM等の半導体メモリ事業こそが、インテル初期を支える祖業だったのです。

 

インテル3代目のCEO(1987~1998)であるアンドリュー・グローブは次のように言っています。

 

インテルといえばメモリ、逆にメモリといえば、たいがいはインテルを指すようになっていた。(アンドリュー・グローブ、佐々木かをり訳『インテル戦略転換』七賢出版、1997年)

 

メモリ事業は、長らくインテルの根幹をなしているアイデンティティそのものだったのです。

 

その後、インテルのメモリ事業に危機的な状況が訪れ、インテルは長く険しい戦略転換点を通過して、新しいアイデンティティをMPUへと求めていくことになります。すなわち、MPUはインテルが戦略転換点を通過する過程で成長した技術だといっても過言ではないのです。

 

では、産業に大きな影響を与えたMPUのアイデアは、どのようにして着想されたのでしょうか。その着想の経緯を探るためには、メモリ開発とほぼ同時期の1969年にまでさかのぼらなければなりません。(つづく)

 

※以上、『日本のものづくりを支えた ファナックとインテルの戦略』(柴田友厚著、光文社新書)から抜粋し、一部改変してお届けしました。

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