akane
2018/08/06
akane
2018/08/06
そして、最近ではその公平性やオープン性も怪しいものになりつつある。
繰り返すが、インターネットとはインフラである、整地された土地のようなものだ。その土地は基本的には出入り自由で、何をやってもいい。みんなでお祭りをやってもいいし、極小の人数で内向きなミサを開いてもいい。インターネットがオープンだと信じられているのは、そういう理念があったからである。
インターネットは相互接続性の高いシステムで、色々なネットワークや端末を相互に接続することができる。しかし、それは相互に接続しなくてはならない、ということではないのだ。インターネット上に、黒電話しかつながらないシステムを作っても別に構わない。そうならなかったのは、インターネットを立ち上げた人々が「インターネットはオープンであるべき」という理念を持っていたからに他ならない。
そう、巷間で言われるインターネットは技術だけでなく、こうした理念も込みの概念なのだ。
接続技術、通信技術としてのTCP/IPだけでなく、オープン、無料といった理念がセットでインターネットは形作られている。
マイクロソフトは、インターネットで存在感を主張できないまま、多くの歳月を費やした。あれだけの企業がなぜ、と問われるが、当然と言えば当然だ。マイクロソフトはプロプライエタリでのし上がってきた企業である。プロプライエタリとは、技術を囲い込み、自社のものとして秘することで競争力を確保し、商品を売っていくスタイルである。ここでプロプライエタリが良いのか、ノンプロプライエタリが良いのかは問わない。良い悪いではなく、そういうフィロソフィーなのだ。そういう理念を持つマイクロソフトが、オープンと無料が素晴らしいという理念を根底に持つインターネットと相性が悪いのは自明である。
インターネットの雄となったグーグルも、けっこう秘密主義な企業なのだが、提供しているサービスはフリーミアムを中心に無償(が前面に出るように)で組まれており、かつオープンな技術をベースに作られている。見かけ上は、インターネットのフィロソフィーと合致するのである。この差が両者の立場を決定づけたと言ってよい。
インターネットを構成する基本技術であるTCP/IPは、仕様をオープンにしており、それをもとに作られたサービス(たとえば、ウェブやメール)も、ほとんどが不特定多数の人に開かれてきた。それでうまくやってきたのである。
インターネットは、この20年間、ほとんどのプロプライエタリシステムを駆逐してきた。インターネットの信奉者がオープンと無料が素晴らしいと考えるのも、根拠のあることなのだ。
しかし、ここに綻びが生じている。
インターネットがオープンで無料なのは、アプリオリ(先験的)なものではなく、多分にインターネットにまつわる思想的な問題だというのは先に述べた。したがって、インターネット上に有料の会員制サービスを作ってもよいのである。これまで、そうしたプロプライエタリモデルはうまくまわってこなかったが、遂にキラーサービスが誕生することになる。SNSである。
SNSは、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、身も蓋もない言い方をすれば、人と人との関係を可視化して、知らなくてもいい事実(あの人とは仲がいいつもりでいたけど、実際にはあんまりやり取りしていないなあ)を暴き出すしくみである。それはともかくとして、際限なく人を閉じさせるシステムであることは確かである。
SNSの売り文句として、「友だちの輪を拡げよう」はよく使われる。確かにフォロワーを100万人も持っている利用者もいるが、そういう人はSNSというツールがなくても友だちの輪は広かったろうし、極少数の例外でもある。一般的なSNS利用者の人間関係は広がらない。閉じるのである。
SNSは快適な人間関係を形成するために使われるツールである。快適な人間関係は、基本的には同属性の人間が集まることで完成を見る。
たとえば、職場や教室の人間関係――母集団がせいぜい数十人の中から選択される友人や仲間でも、自ずとノイズが入る。
その程度の人数の中からでさえ、そうそう同じ趣味やバックグラウンドを持つ人間ばかりを集められるわけではない。
しかし、インターネットとそのサービスの母集団は大きく、検索技術は日増しに洗練の度を加えている。SNS上では、完璧に同質な属性を持つ利用者だけで集団を作ることができる。もちろん、その集団は大きくはならないが、居心地のいい空間を作ることはできる。そうすると、人々はその空間から出て行かなくなる。
SNSが立脚する技術もこれを後押しする。SNSは安全・安心な空間を演出するために、登録制や招待制を敷いているサービスが多い。そして、検索エンジンのクローラが入れないようになっている。
これは当たり前と言えば当たり前のことだが、重要なことだ。
クローラとは、ウェブの巡回探索システムである。インターネット上で生成・蓄積・消費される情報の大半はこれまでウェブに存在していた。人が一生をかけても閲覧しきれないほどの膨大な情報の海から、それでも必要なものを抜き出して見ることができていたのは、検索エンジンが存在しているからである。そして、検索エンジンがなぜ適切なナビゲーションをできるかと言えば、クローラを広大なウェブに放ち、自動巡回させ、どこにどのような情報が存在しているかをデータベース化するからである。
検索エンジンはインターネットそのものではないが、たとえば高層ビルの建築技術があっても、エレベータがなければ実際には高層ビルの運用ができないように、インターネットの発展に決定的な影響力を持つサービスである。
もちろん、検索エンジンにも多くの批判があった。検索エンジンはリスト化した情報から、検索語に最もマッチするウェブページを抽出して紹介するが、マッチングを演出しているのはあくまでも人が作ったアルゴリズム(問題解決の手順)であり、結果が偏るリスクは常にあった。また、検索エンジンは初期の段階から広告と結びつき、広告費を支払っているサイトが検索のマッチングを度外視して表示されることもある。
何らかの理由で検索エンジンにリストされないウェブページがあった場合、それがどんなに優れた情報を掲載していたとしても、ウェブの海の中に埋もれてしまい、存在しないことと同義になってしまう。
実際、インターネットのサービスイン初期には、誰もが発信できる環境が整うことで意見形成の多様化が進むといった楽観論が強かったが、あまりにも膨大な情報の生成と流通は、むしろ意見の収斂を加速させた。利用者は検索結果の1ページ目、その中でも上位3件ほどしかまともに閲覧しないし、そこで目に触れなかった情報など、存在していないのと一緒だからである。これが、検索エンジンに巨大な権力が集積する背景になった。
その功罪は多くの人が指摘するところであるが、古代のアレクサンドリア図書館のように、とにかくグーグル先生に聞いてみれば、ウェブ上のすべての情報にアクセス経路が開かれているという安心感はあった。情報への到達可能性はまだ存在したのである。
しかし、SNSが隆盛してクローラが侵入できないことが常態化すると、インターネットは、全員がすべての情報を共有できる(可能性がある)空間ではなくなった。もしすべての情報を共有したいと思うならば、あるSNSに入会して、SNS内のグループに承認してもらい、参加しなければならない。これをすべてのSNSのすべてのグループに対して行うことは不可能である。
こうして、インターネット上にはたどり着けないページ、たどり着けない情報、見ることができないタイムラインが横溢することになる。図に従えば、サーフェスWebが検索でたどり着ける階層、ディープWebが検索ではたどり着けない階層、ダークWebはディープの一部だが、犯罪性の高いサービスや情報が集まる階層である。ディープWebの中で大きな位置を占めるのがSNSである。
かつてグーグルはグーグルトレンドなどで、現時点で最も流行している言葉や概念を公表していたが(今でもしている)、それが正しく実態を反映しているかどうかは怪しくなりつつある。
たとえば、20~30代のLINE利用率は現在90%を超えている。本当にみんながやり取りしている情報、面白い情報は、グーグルのクローラが侵入可能なウェブ上ではなく、SNS上にしか存在しないかもしれない。
こうした状況下では、情報の流通は公平であるとは言えない。多くのフォロワーが存在する人、多くのコミュニティに招待してもらえる人、言ってしまえばリアルな世界において豊かな人間関係を築いている人は、より多くの情報にアクセスできる回路が開かれるのに対して、そういった社会関係資本が乏しい利用者は、情報へアクセスできる回路が閉じられることを意味する。
もちろん、そうした傾向は従来のインターネットにもあったし、そもそもインターネットに限らず、あらゆるコミュニケーションにおいて普遍的な現象である。しかし、実態としてそうであっても、可能性があることと、可能性すらないことの間には大きな隔たりがある。
かつてインターネットは自由の象徴で、格差や不公平を埋めていくインフラだと考えられていた。いまでも、使い方さえ誤らなければ、そういう力を発揮することができるだろう。
しかし、今やインターネットはまったく異なるベクトルを持ちつつあるように見える。格差を是正するのではなく、格差を固定し強化するツールとして機能し始めている。
インターネットの仕組みに精通して、「うまくやった」極少数の成功者が大きな存在感を持つ一方で、そうした存在に憧れたり、同じような行動をしているつもりの一般利用者が、インターネットに時間やリソースを搾取される構造が完成しつつある。
これは専制君主による支配ではない。行政や企業による社会の分断でもない。自発的に、極めて小さなコミュニティの中に自己を押し込み、所属するコミュニティによっては得られる情報と人間関係の広がりに大きな制限がかかる、そういう社会の形成と維持に、制限をかけられる側が積極的に協力しているのである。
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