akane
2018/08/21
akane
2018/08/21
親は子どもがかわいい。子どもをなんとか立派に育てたいと思う。自分を犠牲にしてでも、子どもの将来に夢を託す。
「お父さんみたいになっちゃダメよ」とか「お母さんのように手に職を持ってないと、生きていくのが大変よ」とか、夫を否定し、自分を否定する。
子どもに対して要求や指示が多くなり、子どもはへとへとになっていく。一番未来を想像しやすい自分の父や母の存在が否定されている。何を見習ったらよいか見失ってしまっている子どもたち。苦しい状況の中、今を否定して、今を楽しまず、今を大事にせず、未来のためにがむしゃらに勉強させられる。その結果が「なっちゃいけないお父さん」と同じようになってしまうのではないかと不安になる。なんだか地獄めぐりをしているような光景だ。ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を思い出した。永劫回帰。人生を出口なしの苦しみの連続にしてはいけない。
二〇〇七年の秋、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」の収録のため、久しぶりに母校の杉並区立和田小学校を訪れた。ぼくは四十八年前にこの小学校を卒業した。校庭の匂いは当時と変わらないような気がした。
ベビーブームで校舎が足らず、午前午後の二部制なんていうのも短い期間だけど経験した。ひとクラス六〇人近くいた時もあった。教室の後ろまで一杯で、後ろは通れなかった。学校はボロくて手ぜまだった。学校はきたなかったけど、居ごこちがよかった。安全だった。教室の中に獣はいなかった。イキがって不良っぽくしている子もいたが、いじめなんてなかった。学校はおもしろかった。勉強することも、遊ぶことも、本を読むこともこの学校で教えられた。
小六のクラスで、聞くことの大切さを伝えたいと思い、二日間で十時間の授業をした。共感しながら聞くことの大切さを教えた。相手に対する想像力を働かせながら聞く大切さを子どもたちに話した。
地域へ子どもたちを連れ出したいと思い、学校から五分ほどの老人保健施設「グレイス」に子どもたちを連れて行った。
十六年前にアメリカで脳出血に倒れた八十四歳のおばあちゃんが、子どもたちの質問に答えてくれた。
「脳卒中で倒れて三年は、つらくて苦しくて、いつも死にたいと思っていました」
絶望から三年間泣きあかしたと言う。左の手と足はまったく動かない。十六年経った今もリハビリを続けている。
「でも徐々に心が変わりました。私はなんにもできなくなったのに、まわりの人が私のことをいらない人間って思わなかった。うれしかった。懸命に生きないといけないと思いました。
左側の手足が自由になりません。当たり前にしていた歩くことも、食べることも、簡単にできなくなりました。一人では歩けないけど、装具をつけて、人に支えてもらって、少し歩けるようになりました。ほら見て。五メートルぐらいしか歩けないけど歩けるって、とてもステキ。ちょっと歩けるかどうかで、顔を洗う時も、トイレも、着替える時も、うんと便利になりました。
はじめのうちはものが咽のどを通らなかったけど、少しずつ食べられるようになりました。うれしかった。幸い右手足が動くことに気がついて、残った機能を上手に使って生きることに決めました。倒れて、十六年も経ったのよ」
≪続く≫
株式会社光文社Copyright (C) Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.