2018/06/18
鈴木涼美 作家
『性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの』明石書店
熊田陽子/著
「元AV女優/作家」なんていうトンデモ系の肩書きで生きていると、夜職女性を扱った本を読んだり、その周辺に関する誰かしらの議論に意見を求められたりすることがままある。私自身が、AV女優についての修士論文を元にした人文書でデビューしているだけに、それは仕方ないのだが、基本的に夜の世界を学術的に、或いはジャーナリスティックに描いた本というのはつまらない。長ったらしい記述の根底に「だから売春は認めるべきだ」もしくは「だから売春は廃絶されるべきだ」という熱い思いが透けて見えすぎるからだ。そんな善悪の判断ありきで現場を見たところで、一番面白いところは絶対に見逃す。
その気持ちはわからないでもない。性風俗について何かしらのコメントを発した瞬間、私たちは「で、あなたはどっちの味方なんですか」とすごい勢いで迫られるのだ。そしてどちらかにちょっと寄れば、売春否定派あるいは売春肯定派のレッテルを貼り付けられ、もう片方を敵に回して一緒に戦いましょうという渦の中に巻き込まれて、自分まで面白いものを見逃す立ち位置に引きずり降ろされかねない。そんな議論に巻き込まれて見る景色は、最早嬢たちも街も息をしていない。あいにく、当事者だろうが支援者だろうが、それは大差なくそうである。
そんな中、本書『性風俗の世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ』の中で、「おんなのこ」と名付けられるSM系のデリヘル嬢たちは、実にきちんと呼吸している。彼女たちは時に矛盾して、時にはこちらの期待通りの姿とはかけ離れた姿を見せる。それは学術論文を書くような立場からすれば、厄介で、面倒で、都合が悪いことでもある。それでもこの本の中では彼女たちは理論を補完することよりも、自由であることを重要視されている。
著者である熊田陽子は研究の舞台となる都内のデリヘル店で実際に運営スタッフとして働きながら、店で働く「おんなのこ」たちを調査している。そういった現場の人間として潜入する方法が彼女たちを語る唯一の方法だなんて思わないが、それでも著者が彼女たちを生きたままに文章に落とし込むことに成功しているのは、現場の空気を吸い、彼女たちと同じ言語で言葉を交わしたことの功績が大きいのは言うまでもないだろう。
例えばタイの売春嬢たちに迫った青山薫「セックスワーカーとは誰か」もまた、現場の売春女性に対してとてもフェアで自然な眼差しを向けた著作であるが、青山が研究者としての立場をいっときも崩さず、ある意味とてもクールで理知的な態度で女性たちに対峙するのと比較して、熊田は研究者としての顔と現場スタッフとしての顔を二つ持ちながら、「おんなのこ」たちとの距離感を探っている。それは、ともすれば同級生でもおかしくない東京のデリヘル嬢とタイの売春女性というインフォーマントの違いでもあるが、作家としての個性でもある。
熊田の紡いだ性風俗世界は、ジャーナリストによるルポルタージュに比べればスキャンダラス性に欠け、刺激が少ないと思われるかもしれない。学者たちの議論に比べれば主張や本論の射程がぼんやりとして見えるかもしれない。それでも、私はこのような視点で夜職女性を描こうとする視線にとても心強い気分になる。
なぜなら、かつての私も含めた夜職女性が生きているのは、論文のために設けられた実践室でも、やらせ感満載のドラマチックな現場でもなく、彼女たちにとっての日常だからだ。彼女たちが「面白い」としたら、彼女たちが人生における日常を生きているからだし、彼女たちに「意味がある」としたら、それもやはり同じ理由だと私は思う。
現場の人間以外にものを言う権利はないなんて思いもしないし、学者以外に議論に参加すべきでないとも思わない。それでも、現場の空気を知るもの、あるいはアカデミックな場所で研究の機会に恵まれたものの責任があるとしたら、本書はそんな責任を模索して紡がれたものだと思うし、彼女たちを「息をしたまま」本の中に落とし込む、とても勇敢な本だとも思う。
『性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの』明石書店
熊田陽子/著