過熱する教育競争の中で生じる「不安格差」

坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長

『教育大国シンガポール』光文社
中野円佳/著

 

Unsplash(Swapnil Bapat撮影)

 

人口約540万人の都市国家であるシンガポールは、人的資本を国の最大の資源と位置づけている。教育と職業訓練には力を入れている一方、社会保障は雇用と市場に依存している。いわゆるワークフェア(Workfare : 勤労福祉制度)政策を採っている国である。
国家として生き延びるために経済成長を最優先させるプラグマティズムの下、国民年金や国民健康保険、失業保険などの制度はなく、公的扶助の適用も極めて少ない。前提となっているのは、国民の自助だ。

 

『教育大国シンガポール』によると、こうした自助が求められる社会の中で、親たちは、自分の子どもが競争に負けて将来落ちこぼれてしまうかもしれないという不安に煽られて、教育に多くの時間とお金をかけるようになっているという。
学力以外の客観的な評価が難しい能力に関しても、それを育むための活動がグレード化されるようになり、可視化されやすい部分の点数を上げるために、熱が入るようになる。過熱する教育戦争の中で、親、そして子どもたちは疲弊していく。

 

こうした状況は、日本の教育の現状と通じる部分があるだろう。他の保護者との間で情報が飛び交い、絶えず比較される。皆が競争を降りないゆえに、自分だけ競争から降りるわけにはいかない。自分でハンドルを握れないし、行く先も決められない。理念としては教育改革に賛成するが、行動の変容までにはつながらない。落ちこぼれることへの不安と恐怖から、自己防衛として、高額かつ費用対効果の不明瞭な教育コストを支払い続けるしかない。

 

不安に煽られ、不毛な競争に巻き込まれてしまうのは、突き詰めれば、親も子どもも、自分なりのやりたいこと=ビジョンを持っていないことが原因である。ビジョンが定まっていないゆえに、同調圧力と不安に負けてしまい、競争に巻き込まれ、消耗を強いられる。

 

ここで、「不毛な競争から降りて、子どもにやりたいことをやらせればいいじゃないか」と言えればよいが、話はそう単純ではない。社会の中で、自分のやりたいことを実現できるのは、一定以上の基礎学力とコミュニケーション能力のある人間だけである。

 

そもそも、やりたいことは、親や友人、社会との関係の中で育まれていくものである。周囲が受験に熱中していれば、同じ競争の中で勝つことが「やりたいこと」になってしまう。
学校に行くのをやめて、YouTuberになった子ども(とその親)が、必ずしも幸せになれるとは限らない。不安ベースの教育戦争から降りて、独自路線を歩めるのはごく一握りだ。

 

教育の目的は、不安に勝てない人間=常に他人と自分を比較して右往左往する人間を育てることではないはずだ。一方で、不安に振り回されない自信と基礎学力を身につけるためには、まずは不安に対する「煽り耐性」を身につけるために、目の前の教育戦争の中で勝ち上がるしかない、というジレンマもある。

 

そう考えると、「煽り耐性」を身につけられるのは、一定水準以上の経済力のある親の下に生まれた子どもだけになり、そうでない子どもたちは、延々と不安に踊らされ、大人になった後、今度は自分の子どもを不安で煽る親になる。不安の世代間連鎖だ。

 

親が子どもに投資しようとすることは止められない。しかし、それによって生じる「不安格差」=不安の世代間連鎖は、個人の自己責任ではなく、社会の力で解消されるべきだろう。

 

『教育大国シンガポール』光文社
中野円佳/著

この記事を書いた人

坂爪真吾

-sakatsume-shingo-

NPO法人風テラス理事長

1981年新潟市生まれ。NPO法人風テラス理事長。東京大学文学部卒。 新しい「性の公共」をつくるという理念の下、重度身体障がい者に対する射精介助サービス、風俗店で働く女性のための無料生活・法律相談事業「風テラス」など、社会的な切り口で現代の性問題の解決に取り組んでいる。2014年社会貢献者表彰。 著書に『はじめての不倫学』『誰も教えてくれない 大人の性の作法』(以上、光文社新書)、『セックスと障害者』(イースト新書)、『性風俗のいびつな現場』(ちくま新書)、『孤独とセックス』(扶桑社新書)など多数。

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