小三治、落語協会会長就任【第66回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

柳家小三治が鈴々舎馬風の後を受けて落語協会の会長に就任すると報じられたのは2010年1月のことだった。

 

24年間落語協会の会長職を務めた五代目柳家小さんが勇退、三代目三遊亭圓歌にバトンタッチしたのは1996年8月。このとき副会長に就任した古今亭志ん朝がいずれ会長となることは、誰もが認める既定路線だった。

 

だが志ん朝は会長となることなく2001年10月に逝去。後任として副会長に就任したのが馬風だった。

 

馬風は当時、『会長への道』というネタをさかんに高座に掛けていた。要は楽屋の裏話をネタにした漫談で、最後は必ず「圓歌の会長は長くない。次は志ん朝、あとは圓蔵、圓菊、小三治……」と協会の有力者の名を挙げて「みんな長くは務まらない、もうじき俺に順番が回ってくる」というオチ。もちろんシャレだ。

 

だが志ん朝が亡くなったことで、馬風は本当に会長への道を歩んだ。2006年6月、10年間会長を務めた圓歌が勇退し、副会長の馬風が会長に昇格したのである。

 

その馬風が2期4年間にわたり会長職を務めた後、後任に指名したのが小三治だった。

 

馬風が会長を退き、後任は小三治になる、ということは、マスコミで報じられる前から噂されてはいた。だが僕はなんとなく「それはないだろう」と思った。「そういう面倒なことはやりたくない」と、小三治なら言いそうだ。

 

だから2010年1月21日の落語協会の理事会で小三治が次期会長に内定したと聞いたときには驚いた。3月の総会で正式決定、6月から就任だという。もちろん小三治が落語協会の頂点に立つのは順当だが、どういう経緯だったのかが気になる。

 

なので僕はその年の暮れ、小三治にインタビューする機会を得たとき「会長なんて引き受けたくないんじゃないかと思ってました」と言った。すると小三治は「そりゃもう、イヤに決まってますよ」と答えた後、こう続けた。

 

「会長はプレッシャーじゃないかと思う人は、きっと会長が何か特別職だとか、名誉なことだとか思ってるんじゃないですか。私は名誉だとも何とも思ってないし、イヤならすぐにでも辞めてやると思った。たまたまそういう場面に出っくわして、他に誰かいねぇのかな、っていうことで、じゃあ……と。落語協会にはずっと身を置いてきたわけだから、ふっとそういう気持ちになった」

 

小三治が会長をやりたがらないだろう、ということは馬風も感じていたようで、馬風から打診を受けたときの言葉は「やっぱりダメか?」だったという。

 

「総会で『やっぱりダメか?』って。『何が?』『だからよ、俺のあと』『ええ~?』 で、しばらく考えて、急に『いいよ』って言っちゃった。それだけです。これがもし、さんざっぱら口説かれて、ってことだったら、どうだったでしょうねぇ……引き受けなかったかもしれないね」

 

結局、小三治は馬風と同じく2期4年間会長を務め、2014年6月に勇退。後任には2011年6月から副会長を務めている柳亭市馬が指名された。

 

文部科学省文化審議会が小三治を重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」に認定するよう文科相に答申したのはその直後、7月18日のことである。

 

落語家の人間国宝は五代目小さん、桂米朝に続き3人目。小三治は答申に先立ち7月16日に東京會舘で内定会見を開き、心境を語った。司会を務めたのは弟子の柳家三三。この会見で小三治は前日に師匠小さん宅を訪ね、仏壇に線香をあげて報告してきたと明かしている。

 

「右手が思うように上がらないので、できない噺がある」と小三治が高座で口にするようになったのは2017年6月だった。観客の立場からは特に異変は感じられなかったが、そう言われると確かにそうも見える。

 

それでも今までどおり高座に上がっていた小三治だったが、8月6日に「今月下旬に頸椎の手術を受けて療養する」と発表された。それに伴い9月6日めぐろパーシモンホールでの一門会と9月9日松戸市民会館での独演会は中止。9月13日、岐阜県多治見市の「小三治・三三親子会」での高座復帰を目指すという。

 

その発表の1週間後(8月13日)、僕は有楽町よみうりホールの「小三治一門会」を観た。三三、〆治、三之助らが高座を務めた後、トリの小三治は病気の話題に一切触れることなく『死神』をみっちりと演じた。飄々とした死神のキャラが特徴的な小三治版『死神』の楽しさはいつもどおり。体調不良の影響は感じられなかった

 

正式な病名は「変形性頸椎症」。8月21日に頸椎の手術を受けた小三治は、3週間のリハビリを経て予定どおり多治見市での親子会に出演、『粗忽長屋』を演じた。

 

手術後の小三治が最初に東京の高座に上がったのは9月19日の大田区民ホールアプリコ。僕がチケットを買った時点では小三治の独演会だったが、復帰して間もないということで一門会に変更となった。

 

小八、〆治、一琴に続き、トリで登場した小三治は「頸椎の手術で3週間ちょっと入院しまして」と報告、入院したのは京都の病院だったと明かすと、リハビリのために京都を歩き回ったという話題へ。大原三千院や鞍馬山に行ってみたという話から、「とらやはもともと京都だった」「仙台・白松がモナカの栗羊羹が美味しい」といった話題に跳び、さらにエノケンが飼っていたトラ、修学旅行での渡月橋の思い出、森鴎外の『高瀬川』等々「マクラの小三治」ならではの40分近い随談を経て、『転宅』へ。人間国宝完全復帰を証明する、見事な一席だった。

 

以来、小三治は再び手術前と同様のペースで高座を務めている。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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