クイーンはなぜベスト100に入らないのか?(前編)【特別編・コラム】
川崎大助『究極の洋楽名盤ROCK100』

クイーンはなぜ評論家から冷遇されるのか? 彼らの全作品が当ランキングから「落選」してしまった理由を、映画『ボヘミアン・ラプソディ』の歴史的メガヒットから「逆照射」する!(前編)

 

 

 すでにお気づきの人もいるに違いない。だからもう、この段階まで来てしまえば、言ってしまってもいい――だろう。

 

 そう。本稿のタイトルにあるとおり、「クイーンのアルバム」は、ただの1枚もランクインしていない!のだ。この100枚の名盤チャートのなかに。

 

 ここであなたは「なぜだ!」と憤るだろうか。それとも「やっぱりね」と溜息をつくだろうか……おそらくは後者の反応のほうが多いんじゃないか、と僕は読む。なぜならば、これこそが、クイーンというバンドが背負い続けてきた「宿命」にほかならないからだ。

 

 クイーンとはつねに「お客さんの熱意によって」前進してきたバンドだった。音楽評論家や「うるさがた」のロック愛好家、つまり玄人筋からは最初に軽視される。冷遇される。しかし、売れる。それを見て驚いた「冷遇組」が、おっとり刀で駆けつけては、なにか頑張って誉めようとする……およそこのような順序で、クイーンの輝かしいキャリアの各段階は形づくられてきた。たとえば彼らの音楽性が変化したりするたびに「この順序」は、性懲りもなく繰り返されるもの、だった。

 

 絶好の例が、眼前にある。彼らの伝記映画にして、昨年来の一大ヒット作『ボヘミアン・ラプソディ』がそれだ。同作はまず公開前後に、批評家から酷評される。嘲笑すらあった(主演のラミ・マレックの付け歯のサイズなど)。だがフタを開けてみると、あれよあれよと、とてつもない興行成績を各国で叩き出す。そして結果、転身した「おっとり刀」の冷遇組の推挙の声いちじるしく、各種映画賞を受賞しまくる(監督がナニだったので、マレックがとにかく顕彰される)――という流れを、ご記憶のかたも多いはずだ。

 

 だから逆にいうと、当チャートのようなランキングものでは、伝統的にクイーンは分が悪い。『ボヘミアン・ラプソディ』のヒットとは逆の位相となるのがここだからだ。「冷遇組」の完全支配地域となることがままある、からだ。

 

 具体的な数字を見てみよう。シンプルだ。クイーンのアルバムは、〈ローリング・ストーン〉の500枚のなかに、ただ1枚だけがランクインしていた。第4作、邦題『オペラ座の夜』(75年)が231位だった。低すぎる、と僕は思う。だが驚いてはいけない。〈NME〉のほうがずっとひどい。「1枚も選んでいない」のだから……というわけで、両方のチャートに入ったアルバムが1枚もなかったため、当ランキングのルールに従って、クイーンは消えた。彼らの全作品が落っこちてしまう顛末となった……。

 

 本稿は、この奇妙な現象の正体を明らかにしようと試みるものだ。なぜ、クイーンはいつもいつも評論家受けが悪いのか? なぜ「にもかかわらず」つねにかならず「お客さん」の熱意によって、その量の壮大さによって「結果的に勝つ」ことができるのか?――これらの疑問のうち、まずは後者から見てみよう。クイーンの「お客さん」とは、元来どんな人たちなのか。彼らの人気の基盤となっているものは、なんなのか。

 

 デビュー当時のクイーンの、日本における人気のありかたはユニークだった。他国に先駆けて「クイーンらしい」盛り上がりが生じた、と言ってもいい。当時の日本では(いまでもそうだが)、国際的な規準でロック批評家と呼べる存在は絶無だったから、リスナーはまったく自由に、自分の規準で「お楽しみ」を見つけることが容易だった。ゆえに、当時の言葉でいう「ミーハー」なファンが、クイーンに素早く反応した。この姿、コア層の盛り上がりが外へ外へと波及して、大きなうねりを生んだ。人気は拡大し、分厚い「お客さん」の輪が、彼らをスーパースターへと押し上げていった。こうしたファンのありかた、人気が広がっていく過程は、世界各国、ほぼ同じだった。

 

 コア層、親衛隊的なチームと言えばいいか。この層の熱さが「一般層」を吸引していくというわけだ。一般層とは、たとえば「とくにロック・ファンではない」層をも多く含む。ここが重要な点だ。

 

 こうした「火の点きかた」の例を、近年の日本社会のなかに見てみると、たとえば韓国のポップ文化に対する人気の加熱ぶりと、とてもよく似ていることがわかる。韓国のボーイ・バンドを好み、ガール・バンドにあこがれ、ファッションや化粧法を真似る少女が多数、新大久保に集う現象と、70年代にいち早くクイーンに走った日本のファンの動きとは、基本的な構造が同じだ。「熱」のありかたが、そっくりなのだ。少女マンガ家までもが率先してクイーンの似顔絵を描いては発表していた、あの感じと。現代はSNSが火の回る速度を早めているのは間違いないが、構造そのものはむかしからあった。

 

 よく言われる話だが、現在のK−POPファン=韓国文化全般が好きな人、ではない。むかしなら原宿竹下通りにあったような「楽しい感じ」が、いまは新大久保にある、それだけのことだ。この「楽しさ」に誘引され、熱のなかに巻き込まれていって……そして、火が点く。まさにこの形こそ、クイーンの人気が形づくられていった過程そのものだ。評論家が介在できる余地は、どの段階にも、とくにない。最終消費者からのボトムアップこそが肝要であって、どこか高所からのトップダウンは、べつに必要ないのだから。

 

 まずはなによりも、クイーンの曲の「楽しさ」だ。これがお客さんの心を躍らせる。着火点となる。このメカニズムは、たとえばディズニー映画『アナと雪の女王』(13年)の、日本での空前の大ヒットのありかたとも似ている。アメリカ製のアニメーション、とくにミュージカルは、日本において「分が悪い」と言われていた。しかし同作は、すべての定説を引っくり返して、歴史を作った。この現象と映画『ボヘミアン・ラプソディ』の成功とは、いくつもの共通項がある。「批評家いらず」という点が、まず第一だ。

 

 世田谷の西端で、ついこのあいだ、僕はこんな体験をした。クイーンの「ドント・ストップ・ミー・ナウ」を鼻歌でうたいながら自転車を漕ぐ中学生男子とすれ違ったのだ。部活の帰りなのか、同じデザインのジャージ上下を着た数人の仲間と、彼は坂を下っていった。全員が、いがぐり頭だったかもしれない。どう考えてもクラシック・ロックのファンのようには見えず、年も若いわけなのだから、これは映画『ボヘミアン・ラプソディ』の影響に違いない、と僕は直観した。『アナ雪』のときに、小学生や幼稚園児が同じような感じで歌っている光景を幾度も僕は目撃していた。そのことを思い出した。

 

 このような事象は、ごく標準的な「ロックの玄人筋」の人たちからはまず好まれない。俗っぽく見えるからだ。高尚さに欠け、文学性に欠けて、政治思想的にも精神世界探究性においても「踏み込みが甘い」感じがするからだ。それはそうだろう。しかしこれこそがまさに「クイーンの伝統」にもとづいている、とも言える。なぜならば、まるで嫌がらせでもしているかのように、73年当時、「評論家受けの逆位相」を集めて結晶化させたような態勢でシーンに登場してきたのが、クイーンというバンドだったからだ。

 

(後編に続く)

 

この100枚がなぜ「究極」なのか? こちらをどうぞ

究極の洋楽名盤ROCK100

川崎大助(かわさき・だいすけ)

1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌『ロッキング・オン』にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌『米国音楽』を創刊。執筆のほか、編集やデザ イン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。2010年よりビームスが発行する文芸誌『インザシティ』に短編小説を継続して発表。著書に『東京フールズゴールド』『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』(ともに河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)がある。

Twitterはこちら@dsk_kawasaki

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