ryomiyagi
2020/03/01
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高瀬正仁『岡潔』(岩波新書)2008年
連載第36回で紹介した『江戸の科学者』に続けて読んでいただきたいのが、『岡潔――数学の詩人』である。本書をご覧になれば、岡潔とは何者か、彼の世界的な業績である「多変数関数論」がどのような環境で生み出されたのか、いかなる「狂気」が彼の中に潜んでいたのか、明らかになってくるだろう。
著者の高瀬正仁氏は、1951年生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業後、九州大学大学院修士課程修了。理学博士。元九州大学基幹教育研究院教授。専門は、多変数関数論・数学史。とくに、岡潔に関する研究で知られ『評伝岡潔』三部作(海鳴社・みみずく舎)や『高木貞治とその時代』(東京大学出版会)などの著書がある。
岡潔は、日本で最も有名な数学者だといっても過言ではないだろう。ただし、それは数学的な業績というよりも、彼が多くの一般向け随筆や講演を通して、未来の日本人に懸命に警告を発したからである。常にゴム長靴を履き、文化勲章を受章した際には、昭和天皇に「数学とは生命の燃焼です」と答えた。「2012年に天照大神が降臨する」と予言した奇行でも知られ、映画やドラマの格好のモデルになった。
岡は、京都大学理学部物理学科に入学したが、二年後に数学科に転科したことを父親に申し訳なく思っていた。彼は後に「工科が私の小さいときからの父の希望で、父は私が、今現に使っている目覚し時計をこわして中の機械を取りだしても、一度も咎めなかったのです。私はそれでプロペラ舟を作って、池の上を走らせました。一度や二度ではありません。私は涙なしに今ここを書いたのではありません」と記している。このように「情緒」を何よりも重要視するのが、岡の人生観である。
その父親が岡に教えたのは「日本人は桜の花が好きである。それは散りぎわがきれいだからである」という信条だった。「父の話してくれる、北畠顕家や楠正行の率いる若人たちの死を恐れぬ疾風の進軍が、パッと咲いた花吹雪を見るように美しく思えた」と岡は言う。65歳になった岡が「今でも、小学校で習った唱歌『吉野を出でて打ち向かう、飯盛山の松風に……』を口ずさむと、そのときの感激がピリピリッと背骨を走る」と書いているほどだから、父親が彼に与えた影響は計り知れない。
1965年の小林秀雄との対談では、「私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、『神風』のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです」と主張している(この対談の分析については、高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書を参照)。
あの小林が仰天して「あなた、そんなに日本主義ですか」と言っているくらいだから、岡の「日本主義」崇拝は相当なものである。ここで注意してほしいのは、岡の思想は「人を先にして自分を後にせよ」という家訓から受け継いだ伝統主義であり、いかに岡の数学的な業績が偉大であろうと、その天賦の才能とはまったく別の「情緒的信条」だということである。「神風」を賛美するような思想は「狂気」である。
35歳の岡は、広島文理大学(現在の広島大学)講師となった。ある日、数学者の歓迎会に出席したが、気分が悪くなって早退し、行方不明になった。岡は、なぜか帰り道に修道中学の夜学生を襲撃し、彼らの本や自転車、帽子や靴まで奪って、笹原に寝そべって一夜を明かしたというのである。その二日後、「金星から来た娘」と夢心地で会話を交わし、その翌年、数学界を震撼させる「岡の原理」に到達した。
襲撃事件は警察沙汰になったが、岡は心神耗弱ということで大学を休職した。故郷の紀見村に戻ると、子どもたちから「きちがい博士」と呼ばれた。夏休みの寺の境内では、朝から岡が縁側に座り込んで熱心にノートを書いている。子どもたちは、岡のことを笑いながらも畏敬の念に打たれて、彼の邪魔をしないようにしたという。
岡潔の数学研究の仕方というのは、数学のカンバスに理想を投影し、理想を追い求める心のままに問題群を造型し、その解決をめざしていくのであるから、いわゆるサイエンスではない。数学者は数学の問題を解く機械ではなく、心に芽生えた数学の理想をありのままに表現する問題群の造型の場において、詩の心が現れるのである。(P.111)
岡潔の「詩の心」とはどのようなものなのか、天才と狂気の間に何があるのか、彼が未来の日本人に遺したかった信条を知るためにも、『岡潔』は必読である!
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