akane
2019/07/22
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2019/07/22
脚本家・映画研究家の大野裕之さんと声優・羽佐間道夫さんが、スターたちの肉声から「声優」の歴史に迫っていく「創声記」インタビュー。ばいきんまん、フリーザなど、国民的人気の悪役キャラを長く演じ続けていらっしゃる中尾隆聖さんとの第2回では、テレビ草創期、声優の草創期のさまざまな事情について語っていただきました。(全4回)
――中尾さんの最初のアニメ作品は?
中尾 『宇宙パトロールホッパー』で、中学一年、一二歳のときです。一九六四年の東京オリンピックの年にオンエアされていたんで、その前の年に録っていたかもしれませんけど、それが初めての主役のアニメーションでした。
――これ、実は羽佐間道夫さんもお出になっていて。
中尾 野沢雅子さんもいました。
羽佐間 僕、この人とは小さかった時からいっぱい一緒に出てるんだよ。浪川君とも、彼が洟たらしてた時から一緒にやってる(笑)。
中尾 まだ大泉の東映でアニメを撮ってた頃ですね。
羽佐間 アテレコには子役から上がってきて、いまスターになった人はずいぶんいますよ。
――でも、まさにテレビの草創期で、声優の草創期を本当に小さい頃から、それを歴史とともに歩んでこられた人生でいらっしゃる。
中尾 そんなオーバーでもないですよ。でも、たまたま、先輩たちの後をくっつきながらです。
でも、今よりおおらかでいい時代でしたね。
――「おおらか」というと?
中尾 昔は、スタジオが真っ暗だったんです。いまみたいにビデオじゃなくて、スクリーンに映写しているから、映画館みたいに暗いんです。だから、寝やすいんですよ(笑)。
羽佐間 そうそう。
中尾 出番までイスに座ってるんですけど、先輩たちは休みながら、誰かのせりふを聞くとパッと起きて、マイクの前でしゃべるんです。それで、笑い話があって、ある声優さんが映画館に映画を観に行って寝てしまった。ハッと起きたら、自分がいつも声を当ててる役者がしゃべってて、アップで英語が聞こえている。英語が聞こえているということはNGだと思っちゃって、バッと立って、映画館で「すいません」と謝った(笑)。
羽佐間 近石真介が収録中に自分の出番じゃない時に、週刊誌を読みながら待機してた。ところが、そのうちにうとうとっとしちゃたんだよね。そしたら、大平透が「おい、出番だ」と教えてやった。近石は「何ページ?」って、台本じゃなくて週刊誌をめくりながらマイクの前に立ったとかね(笑)。
中尾 楽しい時代でしたよ。
羽佐間 今は失敗で恥をかくというのがあまりないもんね。
中尾 それに、今はあまりアドリブとかをやらせてもらえない。私らは、『モンティ・パイソン』とか大好きで、もう吹き替えじゃなきゃ見られないってほどの面白さがあった。これ、台本、どうなってるんだろうと思ったら、みんなアドリブなんですよ。羽佐間さんたち先輩たちが見事にやっちゃうわけ。
絶対こういうのをやりたいと思っていたんですけど、いまは余計なことを言っちゃうとみんな怒られちゃうのでね。
羽佐間 ああ、そうなの? それで俺、呼ばれないんだな(笑)。
中尾 映像で俳優の口が見えなくなったところで、声優がアドリブを入れるんです。
――なるほど。
中尾 役者の口を開いてるところではちゃんと決められたせりふを言うんですけど。役者の口が見えないときにいろんな、捨て台詞であるとか、アドリブをたくさん入れるんですけど、それが面白かったですよねえ。
羽佐間 本番中にみんな笑わないようにしなきゃいけないっていって、それが大変だよ。難行苦行でしたよ。
中尾 みんな、笑わないように、つねってました。アザになるぐらい(笑)。でも、ほんとに楽しい、そういうのがありました。
――ところで、中尾さんが「この道でやっていこう」と決意なさったのはいつ頃ですか?
中尾 物心ついた時から、こういう仕事をさせていただいていたので、とくに決意というのはありません。でも、この道で行こうと思ったのは、やっぱり中学ぐらいのときですかね。ただ、その途端に、仕事が減ってきたんです。
羽佐間 学校出てからしばらく、新宿でバーを経営してたよね。
中尾 一八から二二ぐらいまで、四年ぐらいやりましたね。子役時代からの出演料を祖父が貯めておいてくれたんです。高校を出る時に、これはお前が貯めたお金だから自由に使いなさいと。
――すばらしいおじいさまですね。
中尾 私、本名は竹尾智晴なんですが、竹尾は母方の祖父の苗字です。母が男運がなくて、六回ぐらい結婚してるんです。で、母が再婚するたびに名前が変わるので、祖父が「もうお前は竹尾でいろ」と言ってくれて、竹尾になった。だから祖父に育てられたんです。
お店では、歌手を雇う金がないんで、自分で弾き語りしていました。
羽佐間 彼の歌声は本当にしびれますよ。
――バーの経営は生活のために?
中尾 そうですね。役者はそんなに食えるもんじゃないと思っていたので、とりあえず店でもやって食い扶持を稼いで、仕事をしながらと、甘い考えだったんですけど。両方ともダメでしたけどね(笑)。
羽佐間 いや、仕事で売れてきちゃったからやめたんだよ。
中尾 でも、楽しい時代でしたけどね。役者仲間はみんなお金ないからバーは儲かりませんでした。
――お店をなさっていた時は、子役から大人の役へ脱皮する難しい時期ですね?
中尾 そうです。でも、好きだったんで、これしかないと思っていました。ありがたいことに辞めようと思ったことはないです。
私がお世話になった俳協というところは、ラジオ、映画、テレビ、コマーシャル、舞台、いろんな仕事をやらせていただける環境でした。
――その中で、とくにどれがお好きでしたか?
中尾 どうですかねえ。いまはお陰様でこうやって声優として食べさせてもらっていますが・・・。まあ、先輩たちもそうなんですけど、今の人たちとは違って、「声優をやろう」ということじゃなく、役者としてやっていくという中で、仕事が声優になっていった感じです。
だって、昔はそれこそ声優という職業もなかった時代ですから。声優(セイユウ)と言っても、「えっ、どちらのスーパーですか」と言われるぐらい。
だから、俳協みたいに全部を扱っているところだと、声の仕事は2時間とか3時間で一つの番組を録音するというふうに、スケジュールを押さえるということができるんですけど、生のドラマは一週間予定を空けていないと仕事がいただけない。当時、テレビドラマだと、三通りぐらいのスケジュールが出てました。晴れていれば七時ロケ、曇ってれば自宅待機、雨だったらば九時スタート、セットとか。
だから、一週間の予定が真っ白でないと、なかなかキャスティングをしてもらえない。そこに月曜日と火曜日が二時間ずつ声の仕事でNGが入っていますなんて人は、使ってもらえない。
なので、一本声が入っていると、生の仕事ができなくなり、そうするとだんだん、声のほうの仕事に移行していくわけです。
――羽佐間さんは最初、舞台のお芝居を志しておられましたよね。しかし、同じように声優のお仕事が多くなっていったときに、「いや、自分は舞台俳優だ」という意識があって、ジレンマを感じておられたそうです。
中尾 それは私も同じです。先輩たちがやっぱり新劇の舞台で入って、それこそテレビ局ができた当初は、演劇の本に、テレビに出たら芝居がダメになるって堂々と書いてあった時代ですから。
――ええっ?
中尾 そうですよ。舞台の芝居が一番で、その次が映画。テレビなんてものはダメと書いてあったんですよ。ものの本に(笑)。
――それはどういう根拠で、テレビはあかんと書いてあったんですか?
羽佐間 新劇の権威がみんなそういうことを言ってたの。別に根拠はないんだよ。
中尾 映画界は「五社協定」を作って、スターをテレビに出さないようにしていた。自分たちの作ってきたものを頑張って守っていこうとする映画と、新しく登場してきたテレビとの衝突はやっぱりあったんじゃないですかね。
(第3回に続きます!)
中尾隆聖(なかお・りゅうせい)
2月5日生まれ。東京都出身。主な出演作に『それいけ!アンパンマン』のばいきんまん、『ドラゴンボール』シリーズのフリーザ、『ONE PIECE』のシーザー・クラウンなど。
【大野裕之】
脚本家・日本チャップリン協会会長
チャップリン家の信頼もあつく、国内外のチャップリン公式版Blu-rayを監修。羽佐間道夫氏発案の「声優口演ライブ」の台本を担当する。著書『チャップリンとヒトラー』(岩波書店)で2015年第37回サントリー学芸賞受賞。映画脚本家としては、2014年『太秦ライムライト』で第18回ファンタジア国際映画祭最優秀作品賞受賞。
【羽佐間道夫】
1933年生。舞台芸術学院卒。劇団中芸を経て、『ホパロング・キャシディ』で声優デビュー。以来、声優の草分けの一人として数多くの名演を披露。代表作に、シルヴェスター・スタローンを吹き替えた『ロッキー』シリーズほか、チャールズ・チャップリンの『ライムライト』、ディーン・マーティン、ポール・ニューマン、ピーター・セラーズ、アル・パチーノの吹き替えなど多数。2008年、第2回声優アワード功労賞受賞。
写真= 大場千里/光文社
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