第二章 ナンシロ ナンシロ(3)尊と響
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/08/07

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第二章
ナンシロ ナンシロ(3)尊と響

 

 いつもは菜々子が使うフルフェイスのヘルメットを、今日はジヒョンが、バーカウンターの上に丁寧に置く。少し気恥ずかしそうな仕草だった。
「さて、幼稚園はどうでした?」
「今から、話すよ、菜々子」
 肩までの髪の乱れを直そうともせず、ジヒョンは話し始めようとする。少し太めのデニムに、オートバイ用なのか分厚い編み地のオフホワイトのカーディガン姿、と年より幼く見える。
「ちょっと待って、二人の表情から当ててみる。その前にここはバーなので、まずご注文をいただかないと」
「そうだね」

 

 

 ジヒョンは、照明を受けて並ぶボトルの列を、端からじっくり眺めている。
 菜々子のアルバイト先は、三十年近くの歴史を持つ、横浜駅前の中堅のバーだ。まだ中学生だった時に、一度だけ叔父に連れてきてもらった。菜々子が頼んだのはグレープフルーツ・ジュースだったが、バーテンダーは、カクテルグラスで出してくれた。その中を天井からの光が舞っていた。
 大学生になると背伸びして幾度か通い、ようやくアルバイトをさせてもらえるようになった。
「私は響にする。こういうお酒は、オンザロックだ」
 ジヒョンが酒に通じたおじさんのような注文をするので、菜々子は内心驚いてしまう。
 その横で、
「俺はコーラのオンザロック。ずるいよな、今日も運転手だからさ」
 と、謙太。
 四角い氷の角を、菜々子はまだ慣れているとは言えないアイスピックを手に、丸くなるよう削ぎ落としていく。せっかく丸くしたのに、岩から酒が滴るのがオンザロックなんだから、四角いままでいいんだと客に叱られたこともある。
 ただ単純に、氷は丸い方が飲みやすい。まだ少し歪な氷をロックグラスに収め、計量した響を注ぐ。
 特別に謙太にも同じ氷を作ってコーラを注いであげる。レザーのジャケットを脱ぐと、白いVネックのセーターを着ている。胸元には、昨年のクリスマスに菜々子がプレゼントした銀のロケット型のペンダントが光っている。
 二人の乾杯を見つめながら、ジヒョンの目の輝きに、これは収穫ありだったなと菜々子は予想した。

 

 

「あったの? 手がかり」
「見て、これ。菜々子」
 ジヒョンは、ショルダーバッグから四つに折りたたんだ紙を取り出し、白い指でカウンターに広げた。
 それは一枚の便箋のコピーだった。
〈さくらの木幼稚園の先生方〉
 そう始まるところまでを、ジヒョンは声に出して読んだ。
「タケルくん、字が本当きれいだよ」
 ジヒョンが言うように、どこか男らしく、角ばった清潔な印象を伝える字だ。
〈この度は「はたちの集い」のご連絡をありがとうございました。
 正直言って、今も私が幼稚園とつながりがあることに驚きました。それはもちろん、嬉しい驚きでした。
 私は今、九州の博多に住んでいます。卒園後、父の転勤で幾度か住まいが変わり、ご連絡を受け取るのも、お返事をするのも遅くなってしまい残念です。
 こちらは元気にしております。今は設計事務所の見習いの身です。
 毎春桜の時期になると、ふっと幼稚園の園庭にあった古木を思い出すことがあります。皆さまのご健康と多幸を心よりお祈りしつつ。 村木 尊〉

 

 

「むらき、たける」
 ジヒョンはもう一度、声に出した。
 謙太が言うには、訪ねた先の幼稚園では、当時新人だった先生が一人だけ残っていたそうだ。今では副園長になっていたが、ジヒョンを見て懐かしそうに迎えてくれたという。内気なジヒョンがいつもタケルの横にぴったりと寄り添って過ごしていたことを覚えていて、少しだけ迷った末に、その手紙を見せてくれた。ジヒョンはゆっくり読み終えると、今にも泣き出しそうに眉をハの字に下げた。
「帰り際にさ、コピー欲しいよね? って、先生がジヒョンに訊いてくれて、ジヒョンはこの宝物を手に入れたってわけ」
 謙太が、出されたコーラをごくりと飲み、得意気だ。
「本当に、菜々子と謙太、二人のおかげだ。ありがとう」
 柔らかくそう言うと、ジヒョンは氷のゆっくり溶け出したグラスに漂う琥珀色のウィスキーを飲み干してしまう。
「ジヒョンってお酒、強いね」
 感心した様子の謙太に言われ、本人は笑っている。
「村木尊か。急に幼稚園生のタケルくんが大人の男になった感じがするよね」
 次の氷を割りながら、菜々子が言う。
「私、たくさんな字を想像していたんだよ。ひらがなも考えた。実は、その中で尊っていう字が一番良かった。尊敬の、尊でしょ? 尊くんは、強くて優しかった。それで私が、日本のこと好きでいられた。韓国から来て、日本を嫌いになってしまった人もいっぱいいるよ。でも私は、違うから、嬉しい」
 心の中から気持ちを溢れ出させるように話すジヒョンを、菜々子は見つめていた。
「尊と響が、少し似てると、私は思う。それで、今日はお祝いで頼みました。やっぱり、美味しいお酒だ」
 少し頬を赤らめてジヒョンがそう言った。
「だけど住まいが福岡だったとはね。まず、この住所に手紙を書いてみる?」
 謙太が言うと、ジヒョンはすぐに首を横に振った。

 

次回につづく(毎週金曜日更新)
photos:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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