第6章 ジヒョン(3)オリヒメ
谷村志穂『過怠』

BW_machida

2020/12/25

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第6章
ジヒョン(3)オリヒメ

 

 ALSは、筋萎縮性側索硬化症と日本語では表現する。それをジヒョンは大学で学んだ。
 人口十万人あたりに対して、有病率は約五人の割合で報告される。好発年齢は五十代から七十代だが、まれに若者にも発症する。尊が、その患者の一人となった。

 

 

 この病気は、運動神経系が選択的に障害されていく進行性の神経疾患だ。人の運動神経は、脳から脊髄、または延髄までを司る上位運動ニューロンと、脊髄または延髄から抹消までの下位運動ニューロンに分かれるが、ALSではやがてその両方が障害されていく。下位ニューロンが障害されると、筋力が失われていき、進行すると自分の意思では体を動かすことが困難になる。口や喉が動かなくなり、話す、食べる、自発呼吸をすることもできなくなる。
 また、この病気で障害されるのは、運動ニューロンのみだ。障害が進行しても、意識ははっきりとしており、精神的な働きは全く障害されない。意識がはっきりとあるなかで身体の動きが困難になっていく過酷さがある。
 十九世紀にフランスの神経内科医が発見したが、未だに発症に至る詳細なメカニズムはわかっていないため、決定的な治療法も見つかっていない。
 尊の障害は進み、すでに失声していた。開喉手術も受けており、喉にはいつでも人工呼吸器が装着できるようになっていた。
 だが彼は、感情をのせてよく話すことができた。
 また彼のそばには、いつもガールフレンドがぴったりと寄り添っていた。彼女は彼に代わって、尊の言葉をジヒョンに伝えた。

 

「こんにちは、私の声が聞き取れますか?」
 返事をする代わりに、ジヒョンは彼女の名前を訊いた。
「あなたのお名前は?」
 ジヒョンが彼女に訊くと、
「オリヒメと言います」
 と、色白の顔で頭を下げた。
「織姫、彦星のお姫様ですね。素敵な名前です」
「ありがとう、そう思います」

 

 だが織姫の声は、男の声だ。青年になった尊の声がどんなだったかは知らないけれど、まるで彼の顔の輪郭からごく自然に届けられる声に聞こえる。
「それにしても、ジヒョンちゃん、ゼンゼン変わっていない。すぐにわかったよ」
 尊の言葉を織姫が伝える。
 尊は、白いシャツに水色のカーディガンを着ている。丸っこくて存在感のある、印象的なメガネがよく似合っている。
「僕はどう?」
 と、織姫を通じて訊かれる。
 そんなこと、すぐに答えられるはずがない。聡明そうに秀でた額や澄んだ目の印象は変わっていない。背はそんなに高くないようだ。どちらかというと華奢な肩をしている。

 

「あらあら、尊ったら、女の子に全然変わっていないなんて言ってはだめよね。あの泣き虫だったジヒョンちゃんが、こんなに綺麗になったのよ」
 尊の母がそう言って、湯気の立つココアを出してくれた。
「嫌いじゃなかったかしら。ごめんなさいね、私も尊のことは言えないわ。子どもの時の印象のままだもの」
 ジヒョンは両手で恭しくカップを受け取り、
「美味しそう」と香りを嗅ぎ、だが昔のように尊と並んでココアを飲むことができないのを残念に思う。本当に病気が憎くなる。少し口をつけて、言った。
「お母さんが正しいです。褒めて欲しかったです。尊くん、女心を分かっていないです。でも実は私も尊くんが、一つも変わっていなくて驚きました」
 ジヒョンが言うと、織姫が野太い声で、
「そうか、まいったな」
 と、少しおどけたように伝えてきた。

 

 織姫は、ロボットだ。
 尊の座る車椅子の視線の位置には、大きな文字のボードがある。その横に、織姫は吊るされている。
 視線を動かすことでキーボードの視線入力ができ、それは合成した音声に変換される。尊は音声で言葉を伝えることもできるし、メールも打てるのだ。なんと、絵を描くことも、製図をすることもできるのだそうだ。

 

 

 尊の母親が、こう教えてくれた。
「織姫が話しているのは、実は尊本人の声とそんなに違っていないの。発症してすぐに、尊はまだ歩いたり、話せるうちに、同じ病の患者さんたちの連絡会に参加してずいぶん勉強したんです。新しく始まっていた補助技術の開発にも、自ら手を上げて協力を申し出てね。視線で文字列を読んで、それを音声に合成するプログラムはすでに昔から活用されていたんだけど、本人の声に変換するプログラムは、当時はまだ開発されたばかりでね。尊は声を失う前に、自分の声や話し方の特徴をサンプリングして、アプリに学習させたのよ。だから、織姫は感情も豊かにのせて伝えてくるの」
 どんな思いで若い尊がその作業をこなしていたのだろう。それを思うと、ジヒョンは胸の芯がはちきれそうになるのを感じた。 
「やっぱり、変わっていないんだ。小さい尊くんと同じです。強くて、立派です」
 本当は、想像の中の尊とも同じだとジヒョンは言いたかった。
 力強く、頼もしく、清々しい心を失っていない。話したいことがたくさんあった。日本を離れてからのこと、この春、日本に帰ってきてからのことも。

 

 

「あの、着いてそうそう訊くのも変だけど、ジヒョンちゃん、今日は博多に泊まっていけるの?」
 母親が瞳を揺らす。実はこの質問はちょっと困った。
「はい」
「あの、ホテルはどこ?」
 そう訊かれて当然だった。親戚でもないのだから。
「ここに泊めてもらうことはできませんか?」
「できるに、決まってるさ」
 間髪入れずにそう答えてくれたのは、織姫で、ジヒョンはとても嬉しかった。
 だが母親は返事をしない。
「吸引を頼みます」
 織姫がそう言うと、母親が喉にチューブを挿入する。
「これがね、ちょっと大変。尊のケアはお休みなしなのよ」
「でも僕は赤ちゃんではないよ。自分の言葉で、なんでも伝えられるよ」
 尊が母親に、そう反論する。
「私は医者になるため勉強しています。ALSのことも、今回少し教わってきました。図々しいお願いですが、冬休みの間、ここにいさせてもらえませんか? みなさんが疲れないように、努力します」

 

 これには尊も驚いたのか、吸引が終わっても織姫は短く沈黙してしまった。
 だがまた尊の目が動いた。視線入力のコンテストがあったら、優勝しそうに速く動く。
 正面のプロジェクターが明るくなり、そこに一筆書きのようなクリスマスツリーが映し出された。頂には、星がついている。
「大歓迎だよ。そうでしょう? 母さん」
「でもね、ジヒョンちゃん」
 母親が首を傾げていると、織姫はさらに尊の言葉を伝えた。
「母さんも、ジヒョンちゃんに僕のことを頼んで少し休ませてもらったらいいと思うよ」
「そんなことを言ったってね。大体、ジヒョンちゃんのご家族は平気なの? うちは今年、大したお正月の支度もできないのよ」
 外の雪かきをしていた尊の父親が、部屋に戻ってきた。
「実際、手はいくらあってもありがたいんだがね。お前、頼ってみたらどうだ」
「決まりだね」
 織姫の声が、部屋の中にそう響いた。

 

 

 尊の部屋に椅子を運んでもらって、ジヒョンは毎日を過ごした。
 起きている間は織姫を通して声で話すことも、なんとなく二人で秘密のやり取りをしたいときはメールを送り合うこともあった。
 ただ尊は、眠っている時間も多かった。
 急に苦しそうになり、痰の吸引が必要なのを知る。
 母親は最初心配そうに何度も部屋を見にきたが、大晦日になると台所からお醤油の香ばしい匂いが漂うようになった。
 そんなときジヒョンは、実家で甲斐甲斐しく台所に料理を並べているであろうオモニの姿を思い浮かべた。
 正月に帰らないことをメールで書き送ったら、母からは、娘を捕まえるようにすぐに電話がかかってきた。すぐに涙まじりの声になり、
「ジヒョナはずっと私たちの元へ帰って来ないの?」
 そう訊いてきたので、勉強が終わったら、必ず帰るよと伝えた。
「ヤクソクするよ」と。
 韓国語と日本には、似た発音の言葉がある。「約束」がその一つだ。けれど少しだけニュアンスが違うようにも感じる。韓国語の約束は、誓うや契るという意味に近いだろうか。

 

 

 元日の朝を、尊の家で迎えた。
 尊の母親が作ってくれたのは、お雑煮だった。お雑煮は丸いお餅で、すまし汁に魚の切り身や青菜やしいたけが入っていて、ジヒョンははじめて目にする料理だった。
「いいな、うまそうだ」
 と、食べることはできない尊の言葉が発語される。
「だからね、今年はもう作らないつもりだったけど、ジヒョンちゃんに食べてもらいたくて母さん、作ったわ。お雑煮ってね、土地ごとに違うの。ここのはね、青菜はかつお菜っていう名前で、かつおは、勝つ男」
 ジヒョンはそれを訊いて、尊と、それと父親に向かって拍手を送った。
「あとね、お魚はブリ。出世魚ってわかる?」
「あ、知っています。私、日本のこと、物知りですね」
 声には出さず、尊の目が笑っているように輝く。
「でね、ブリを『嫁ぶりがいい』という言葉にも引っ掛けて届けるんだって」
 そう言うと不意に母親は目頭を指でさっと拭った。
 尊の食事は、胃ろうからチューブで運ばれる。その味を分かち合うことはできない。でもきっと想像の中で、尊は十分味わっているのだとジヒョンは思う。

 

 部屋に戻ると、尊から音を伴わないメッセージ、メールが届いた。
〈手をつないでいいかな〉
 ジヒョンは椅子を立つと、尊の大きな右手に、自分の左手を結んだ。痛いほど、隙間なく。

 

次回は1月8日(金)更新
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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