第6章 ジヒョン(2)小さなクリスマスツリー
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2020/12/18

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

 

第6章 
ジヒョン(2)小さなクリスマスツリー

 

 懐かしい匂いがした。
 教会の下駄箱に靴を置くと、子どもたちの口元が放つ、甘いような匂いが漂ってくる気がした。
 クリスマスの装飾が施された教会の椅子に座り、ジヒョンは、キャンドルの先の揺らめきを見つめていた。

 

 

 さくらの木幼稚園を付属する教会だ。硬い椅子に座っているだけで、いろいろなことを思い出した。左手奥に置かれたピアノを先生が弾いてくれた音色、子どもたちの弾むように高い歌声、よく隣にいてくれた尊の肩の高さ。
「ジヒョンちゃん、寒いわね。よくまた来てくれました」
 当時からおられた先生が、今日は紺色のセーターの胸に、トナカイのブローチをつけている。ジヒョンを見つけて声をかけてくれた。
「雪が降りそうですね。今も、クリスマスページェントをやっていますか?」
 子どもたちが行う生誕劇は、そう呼ばれている伝統行事だ。
「そうなの。いよいよ今週末なのよ。みんな張り切っているから、よかったら見にきてね」
 先生の澄んだ目を見つめる。
「ジヒョンちゃんはページェントでは確か……」
「はい、お星でした」
 そう言って、両手を頭の横で小さく振ってみせる。
 自分は台詞のないお星様、尊は大役である三人の博士の一人。それなのに当日緊張していたのはジヒョンで、劇の直前に、ステージの袖から心配そうにこちらを見て、頷いてくれた。そして劇が終わった帰り道は、母たちにねだって、ソフトクリームを食べて帰った。尊は口の周りにいっぱいクリームをつけていた。

 

「観たいですが、残念ながら、週末はちょっといない予定です」
「クリスマスは、韓国に帰るのかな?」
「そのつもりだったのですが、博多に行こうと思っています」
 そう伝えると、先生は先日の手紙のことをふと思い出したのか、瞬きをした。
「博多って、もしかしたら尊くんに会いに?」
 ジヒョンは頷き、返事をした。
「あれから、手紙を書きました。それで、しばらくして、お母さんから返事が届きました」
「連絡が取れたのね。よかった。どうしたかなと、気になっていたのよ」
 ジヒョンは、先生の少し淡い色の瞳が揺れるのを見つめて言った。
「ありがとうございます。尊くんは少し病気ですが、会うと言ってくれました」
「尊くん、どこか具合が悪いの?」
 先生に、手紙にあったことを伝えた。
「どうか、一緒にお祈りをしてください」
 先生は、幼稚園の頃のようにジヒョンの背中をさすってくれて、並んで手を合わせた。

 

 

 ジヒョンは、手紙を読んですぐに、羽田へ向かおうとした。けれど、本当なら冬休みは一度韓国に帰る約束を家族としていた。せめて、家族には伝えてから出発すべきだと思ううちに、日にちが過ぎていった。韓国で皆が悲しむのはすぐに想像がついた

 

「ミアン」
 ごめんと、最初はすぐ上の姉に電話口で伝えた。
「勉強が忙しいの? ジヒョナ、二、三日でもいいから帰れない?」
 約束を破る上に、姉に嘘をつくのは心苦しかったから、正直に、伝えた。
「本気? クリスマスなのに。オモニ、ジヒョナのためにたくさん料理の支度をしてるよ。なぜ帰国便が決まらないのか昨日も訊いてきたよ」
 母には、この後、メールをするつもりだ。
「ジヒョナ、あなたの尊くんは思い出の人、私は少し心配になってきた。良い思い出のままではいけないの?」
 返事に困っていると、姉はふと思いついたように訊ねてきた。
「お友達はなんて言ってる? ほら、あの、韓国人みたいになんでもぴしゃりと言う子」
「菜々子? 菜々子も今いろいろ忙しくて、ちゃんと話していない」
  DNA検査の結果が出てから、菜々子は、タビケンにも来ていないし、大学で会ってもいつも急ぎ足でどこかへ行ってしまう。何度かメッセージを送ったが返事もない。 
「ミアネ、オンニ」と、ジヒョンはまた謝った。

 

 

 羽田から福岡までは、飛行機で向かった。韓国に帰るために振り込まれていたお金を使わせてもらった。
 隣の席の二十代くらいの女の人が、ジヒョンが読んでいた韓国語の本を見て、しきりに声をかけてきた。韓国のドラマをよく観ていて、好きな俳優がいるそうだ。

 

 ジヒョンは、とても不思議な気持ちになる。幼稚園の頃はたぶん、自分が小さかったこともあるが、韓国に関心を寄せてくる人などいなかった気がする。当時、『冬のソナタ』というドラマがブームになったようだが、父や母からは当時は、日本にいると嫌な気持ちになることが多かったと聞いている。だからジヒョンがどうしても日本へ行きたいと話すとずいぶん心配したのだ。韓国のスターたちががんばってくれて、人の気持ちを変えた、と素直に感じた。

 

 自分にとっては、同じように尊がこの国を好きにさせてくれた人だったと思う。
 隣の子は、今は東京で働いていて、正月休みで博多の実家に帰るそうだ。
「韓国のドラマを観ていると、家族がすごく仲がいいじゃないですか。家族を大事にしなくちゃって、思うようになりますよね」
 と、彼女はたくさんの手土産を持って飛行機を降りた。

 

 

 福岡空港からは地下鉄空港線で博多まで二駅だ。タビケンで調べたことが役に立った。ジヒョンは、自分が案外落ち着いていることに驚いていた。
 東京から運んできたのは、小さなクリスマスツリー、頂には星の飾りが付いている。 その飾りは、幼稚園で昔から飾られていたもの。先生が外して一つ分けてくれた。
 もらっていた住所を確認して、住宅街の一角にあるレンガの壁の家の前に立って呼び鈴を押した。
 でもその前から、赤いコートを着たジヒョンには、もう尊の姿が見えていた。
 車椅子に乗った尊が、窓辺でこちらを見て真っ直ぐに見ていたから。
 ジヒョンは窓に向かってツリーを見せて、一旦、恥ずかしくなり顔を隠し、また顔を出した。
 夢の中では何度も現れては消えてしまった、青年になった尊が、溶けずにそこにいる。
 やっぱり大好きだ、とジヒョンは思った。
 思い出の中より少し年をとったお父さんとお母さんが、扉を開けてくれる。

 

「あら、雪。ジヒョンちゃんが雪を運んできたわ」
「遠いところを、よく来てくれたね」
 自分の家族ではないけれど、家族のそれぞれが話す温かい声にジヒョンは包まれた。
「皆さま、メリークリスマスです。クリスマス、おめでとうございます」
 ジヒョンは扉の中へ入る前に、一度だけ振り返って、空から降り落ちてきた雪を見上げた。

 

次回に続く(毎週金曜日更新)
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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