2020/04/06
坂爪真吾 NPO法人風テラス理事長
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著
私は仕事場で、2匹の爬虫類を飼っている。メキシコ原産の「ジャイアントマスクタートル」という長い名前のカメと、ペット用に海外で殖やされた品種である「スーパーマックスノーのヒョウモントカゲモドキ」という非常に長い名前のヤモリである。
それぞれの個体に、特に名前は付けていない。生き物には、学名・和名・英名・品種名が既についているので、それ以上名前を付ける必要はない。
子どもの頃から生き物好きだった私は、5歳の頃に地元の用水路で捕まえたクサガメを飼い始めて以来、様々な生き物を飼ってきた。
1990年代後半以降、爬虫類がペットとしての市民権を得るようになってきた。それに伴って、爬虫類においても、犬や猫のように、オスの個体を「男の子」、メスの個体を「女の子」と呼ぶ風潮が出てきた。
私自身は、飼育動物としての爬虫類は愛玩動物ではなく観賞魚に近い存在だと思っているので、こうした風潮には正直抵抗を感じる。
意思疎通のできない生き物を、勝手に擬人化して愛情を注ぐことについては、いかなるきれいごとやお題目を唱えようとも、人間のエゴでしかない、と考えている。
一方、世の中には、擬人化による愛玩を通り越して、動物をセックスのパートナーにする「動物性愛者」と呼ばれる人たちがいる。
「動物性愛者」というと、自分の欲望のために動物を利用する、おぞましい存在というイメージがある。イメージ以前の問題として、「動物とのセックスなんて、考えたくもない」という人も多いだろう。
しかし、本書『聖なるズー』を読むと、そうしたイメージは全くの誤りであり、彼らが私たちと地続きの存在であることに気づくだろう。
「ズー」と呼ばれる彼らは、動物に対して「セックスのための性的なトレーニングは決して行ってはいけない」という倫理観を持っている。動物を道具扱いせず、対等な関係の中で、お互いがしたいと思った時に、セックスをする。
人間の都合で動物を去勢し、「性のない愛玩物」「子ども扱い」してコントロールするのではなく、子どもではなく成熟した存在として、対等なパートナーとして接するべきである、と彼らは考えている。
そこには、人間と動物の間に歴然と存在している「支配/被支配」の関係性から抜け出して、生に欠かせない性という要素を含めて、パートナーである彼らを丸ごと受け止めたい、という願いがある。
ズーの問題の本質は、動物とのセックスの倫理的是非をめぐる問題ではなく、「世界や動物をどう見るか」という世界観の問題である。「誰を愛するか、何を愛するかということについて、他人に干渉されるべきではない」という思想の問題でもある。
人間と動物との間の「対等性」や「性的同意」をどこまで立証できるのかという問題はあるが、主張としては論理的に筋が通っている。
LGBTに理解のある人にとっては、ズーの主張や振る舞いが、他の性的マイノリティと同様に、社会的に理解・擁護されるべきものである、という感想を持つ人も少なくないはずだ。
本書の中で、ある一人のズーが「障害者の性がケアされることと同様に、犬の性もケアされるべきではないか」と語る場面が登場する。
2004年に刊行された『セックスボランティア』(河合香織:新潮社)は、女性の書き手がこれまで光の当てられていなかった障害者の性という領域を描き出し、大きな話題を呼んだ。同書の刊行をきっかけに、障害者の性を支援する団体や風俗店に注目が集まるようになり、メディアで取り上げられる機会も増えていった。
おそらく、本書『聖なるズー』も、今後そうした波及効果を巻き起こしていくのではないだろうか。本書を読んで「自分もズーだ」と自認する人々が声を上げるようになり、少しずつ当事者のコミュニティが作られるようになり、メディアでも取り上げられるようになる可能性はある。
ここで懸念されるのは、これまで性的マイノリティの世界で何度も繰り返されてきた悲劇が、ズーの世界においても、同じように繰り返されるリスクだ。
海外の事例や理論をそのまま日本で適用しようとして、不要な摩擦や葛藤が生じてしまう。本当はズーではない人たちがズーと名乗ってバッシングを受けたり、「誰が本当のズーか」をめぐって、当事者内部で苛烈なマウンティング合戦が起こる。他の性的マイノリティからの差別や排除が起こる可能性もある。
また性暴力の被害者や精神疾患の患者など、心身に性的な傷を負った人たちが集まり、自分の痛みとズーの痛みを同一化して、「動物性愛者への差別が許せない」「動物に対する差別が許せない」という声を上げて、ズーや動物を代弁して、SNS上で暴力的な言動を繰り返すようになるかもしれない。
もちろん、そうした摩擦や葛藤は、特定の性的マイノリティが社会に認知されるためには避けて通れないプロセスなのかもしれない。
しかしズーの場合は、片方の相手が人間ではない。そうした中で、「パートナー」との「対等な権利」や「性的同意」を社会に向けて発信することは、容易ではないだろう。
ズーという概念、及び当事者のコミュニティが国内でもソフトランディングできるように、ズーの主張を真摯に描いた本書の内容が多くの人に読まれることを祈りたい。
『聖なるズー』集英社
濱野ちひろ/著