第10章 ポゴシポ(3)白いブラウス
谷村志穂『過怠』

ryomiyagi

2021/05/14

『移植医たち』では移植医療、『セバット・ソング』では児童自立支援施設。谷村志穂が次に手がけるテーマは最先端の生殖医療。
幸せをもたらすはずの最先端医療が生んだ“かけ違え”。日本と韓国、ふたつの家族、母と娘……二人の女子学生の人生が未来が翻弄される――――。

※本記事は連載小説です。

 

第10章
ポゴシポ(3)白いブラウス

 

 まだ街の朝が始まらないうちに、車でソウルを出発した。
 ハンドルを握っていたのはジヒョンの母親で、助手席には昨日会った次姉が座り、菜々子は後部座席にいる。
 早朝の風景は、どの都市もどこか似ている。多くの人たちが眠っている中で、早くに起き出さねばならなかった人たちだけが、動いている。目を擦りながらオートバイに跨る人、どこか深刻な顔をして散歩をする人、公園には早朝からランニングやトレーニングをする人たちの姿もある。
 まだ眠っている街を、目覚めさせていく朝の人々。その一員になって、車は高速道路に入り、少しずつ郊外へと進んでいった。

 

 

 自分の実の両親であるはずのソン・ミンジュン、カウン夫妻は、湯河原の両親と同じ時期に高山産婦人科医院に通い、高山医師の治療のもと、凍結保存した受精卵の胚移植を受け、女児を授かった。その女児は、本当だったら、湯河原の宮本家に生まれるはずの子どもだった。
 今、ハンドルを握るジヒョンの母は、髪の毛を低く一つに結び、赤いジャンパーを着ている。ジヒョンをそのままふっくらさせたような色白の横顔だ。時折次姉と韓国語で言葉を交わしているが、二人はまたほとんど無口で、菜々子に気遣っているのかもしれない。
 約二時間の道のり。その海辺の街で実の両親は、食堂を営んでいるそうだ。
 日本でのファンドビジネスで失敗し、韓国へ戻った。事業や資産を諸々整理して、これから向かう場所に移り住んだようだと聞いている。
 湯河原の家族には、今回の旅について秘密にしている。実の両親らしき人物が特定できたことも話していない。高山産婦人科医院や宮本家がこの後どうするつもりなのかは知らない。けれど菜々子自身は、もし、これから出会う家族が何の疑いもなく幸せにいるのなら、自分から真実を伝える意図はない。
 身勝手なのだとは思うが、今はただ自分の本当の両親に会ってみたい。もしそこに生まれ育っていたら、韓国人であったのなら、どんな人生を歩んだかを想像してみたい。
 ジヒョンの家族には、菜々子のそんな気持ちは事前に伝えてあった。どのように説明して、ソン家と連絡を取ってくれたのかはわからないが、今日の昼食はその“海辺の食堂”でいただく予定だ。

 

 

 高速道路は朝の白い光に満ちてきた。しだいに車窓からは高層ビルや看板が消えていき、田舎らしい長閑な景色になっていった。
「菜々子、k―popは好き?」
 後部シートを振り向いて訊いてきた次姉に、素直に、うーん、と曖昧な返事で首を傾げていると、スマホをブルートゥースに繋いで、洋楽のヒットチャートにを流してくれた。
 母親が鼻歌で少し体を揺らす。
 ジヒョンの母は、義父母の世話をするために、介護の勉強をした。二人を順繰り看取った今は、介護施設で週の半分くらい介護士をしていると聞いている。愛情深い人なのだと思う。
 朝、ホテルのロビーで菜々子はソファに座って待っていた。赤いジャンパーのその人を見つけて立ち上がると、頭を下げただけで、こちらを見つめるその目が潤んでいった。

 

 高速道路を降りていくと、さっそく海が眼下に広がりはじめた。
 不思議な心地がした。
“その子”も、海辺の街で育っていたのだ。
 少し窓を開けて、潮の香りを嗅いでみる。
 潮の香りといっても、異国の香りだ。
 次姉は、タッチパネルに指で触れて、ナビゲーションシステムの地図の表示比率を拡大させていく。
 到着予定時刻の表示が菜々子の目にも止まった。あと十五分もしないうちに、到着するのを知る。
 深呼吸をして、手にしていたスマホでメールを書いた。
〈もうすぐ着くよ、ジヒョン〉
〈菜々子、私と尊くんは、応援している。頑張ったのは、その場所まで訪ねたこと。あとはもう何も頑張らなくていいよと、尊くんが言ってる〉
 ジヒョンから、じきにそう返信があった。
 いつも、驚くほどジヒョンは率直だ。
 謙太がジヒョンにした相談も、そのまま包み隠さず話してくれた。
 自分は今の菜々子を何一つ、受け止められていない。ジヒョンのように、理解しながら話を聞いてあげられない。相槌一つ打てずにいる。菜々子に会っていても、情けないばかりだ。
それが謙太の正直な気持ちだったそうだ。彼は、菜々子にはそれが言えなかった。だからジヒョンに話した。

 

「それでジヒョンは謙太になんて言ったの?」 
 彼氏との問題の仲裁役を誰かに頼むなんて柄じゃなかったのにな、と菜々子は思いながら聞いていた。
「今、菜々子は、人生をもう一度始める旅に出ているから、少し待ってあげた方がいいと言った。一緒に待ってみようかと言った。謙太は頷いていた」

 

 

「菜々子、Here it is、見えたよ」
 次姉が彼女も助手席の窓を開けて、指をさす。
 食堂と聞いていたから小さな海の家のようなところかと想像していたが、海に面して段々にテラスが続く、白い壁に赤茶色の屋根を載せた、広々としたレストランだった。
 車を駐車場に停めて、三人で降り立つ。菜々子の両脇にジヒョンの母と次姉が立ち、両方の腕を組まれるのは、昨夜と同じだ。
 三人で腕組みして入っていくと、母親がエントランスで白のシャツに黒のスカートという制服姿の女性に何か話している。
 向こうが吹き抜けて海になっている。

 

 自分と同じ年頃の、白いブラウス姿の女性がシルエットになって見えた。
 菜々子は、医学生らしくない感覚に陥った。本当に一瞬、心臓が止まったかに思えた。
 長い黒髪は柔らかくカールしていて、涼しげな目だ。撫で肩で、薄い体つき、そこにいたのはまるで湯河原の母みずきにそっくりの若い女性だった。
受付の女性の呼びかけで、彼女が迎えに来てくれた。こちらに澄んだ笑みを向けて、だけどどこかクールに見えるのも母と似ている。海を見下ろすテラス席に案内してくれた。
「ヤポネ?」
 日本からのお客様ね、とでも次姉に訊いたのだろう。こちらを見て、アンニョンハセヨー、と菜々子に挨拶を交わす。
「オンマ」
 店の奥の方へ向かって、彼女は手を振った。
 もう一度、鼓動も、呼吸も、全てが止まった。
 長い手足の女性、大きくて黒目がちな瞳、長い黒髪を片方の胸の方に下ろし、ブラウスの胸元には雫形の小さなネックレス、耳元には、よく光る大きなピアスをつけていた。
 彼女は自分を見て、掠れた声でごく普通の挨拶をした。
 じっと、明らかにしつこく見つめているのに、彼女はよほど見つめられることに慣れているのか、華やかに笑みを浮かべた。
「オレンマニエヨ」
 何かそんな言葉でジヒョンの母と、しばらく再会の挨拶を交わしたり、互いの肩に触れたり、していた。
 改めてジヒョンの母親が菜々子を紹介する。韓国語の後に、日本語で言い直してくれた。
「この方は、宮本菜々子さんです。ソンさんの娘さんと同じ頃、同じ病院で生まれたご縁を知って、こちらに立ち寄られました。優秀な医学生ですよ」
「オモニ?」
 次姉が、自分の母親が突然、披露したその流暢な日本語に驚いている。
「もうすっかり忘れていましたが、ジヒョナが日本に留学した時から、私も習い始めました。いつでも日本にジヒョナに会いに行けるように、その時迷惑をかけたくないから。」
 ジヒョンの母はそう言ったが、目の前の本当の母は、もう日本語は忘れてしまったようで何も応答しなかった。

 

 

 驚きが畳みかけるように襲ってきた。ジヒョンの母の流暢な日本語、そこですっかり明かされてしまった菜々子がここを訪ねた理由、そして自分にそっくりな女性と、自分を育てた母にそっくりな女の子。
「娘さんは、今お休みで、アルバイトで手伝っているそうです。大学生です」
 と、紹介される。
「メニュー」
 と、女の子が見せてくれたとき、もっと驚いたことがあった。彼女の指が、細長くて、けれど妙に節ばった色気のある手。やはり、いつも見てきた母の手にあまりに似ていて、思わず見つめてしまった。
「まず、食事を頼みましょう」
 ジヒョンの母が言った。
 そして何より一番の驚きは、こんなによく似た人が現れたはずなのに、実の母も、ここで育った娘も気づいていないらしいことだった。
「頼みます。急にお腹が空いてきた。さっきからいい匂いがしているから」
 スパイシーな魚料理の香りが、店内には漂っていた。

 

毎週金曜日更新
PHOTOS:秋

谷村志穂『過怠』

谷村志穂

tanimura shiho 1962年北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部にて応用動物学を専攻。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。1991年『アクアリウムの鯨』発表し、小説家デビュー。紀行、エッセイ、訳書なども手掛ける。2003年北海道を舞台に描いた『海猫』で第10回島清恋愛文学賞を受賞。作品に『余命』『黒髪』『尋ね人』『ボルケーノ・ホテル』『大沼ホテル』『移植医たち』『セバット・ソング』など。『海猫』は故森田芳光監督により2004年、『余命』は生野慈朗監督により2009年映画化される。最新刊に『りん語録』。北海道・七飯町(大沼国定公園)観光大使、はこだて観光大使、北海道観光大使も務める。
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