自閉症を生んだ医師とナチスに共通する“二面性” 自閉症が生まれた背景とは?
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gimahiromi

2019/07/12

現在「自閉症」は発達障害の一つとして定着しているが、その起源がナチスの悪夢的価値観や制度にあることはあまり知られていない。「アスペルガー症候群」などで知られるハンス・アスペルガーの一生をたどることで「自閉的精神病質」という概念が形成された系譜を検証し、2018年のロンドン・ブックフェアで話題沸騰となった『アスペルガー医師とナチス~発達障害の一つの起源~』が光文社新書から待望の邦訳。記念して、本書の一部を公開します。アスペルガーの行動が示すナチスの2つの顔とは、一体何なのでしょうか。

 

 

◆児童安楽死プログラム――治療と排除

 

アスペルガーはよく、第三帝国時代に黙々と研究に没頭しながらナチスに抵抗した、進歩的で思いやりのある人物として表現される。

 

確かに、敬虔なカトリック教徒であり、ナチスに入党したこともない。アスペルガーはまた、障害のある子どもをナチスの迫害から守ったとも言われる。

 

ナチスの「安楽死」プログラムから子どもたちを守るため、彼らには特殊な能力があり、技術職で国家に貢献できる可能性があると主張した、と。

 

この見解に従えば、アスペルガーは自閉症診断を「シンドラーのリスト」として使っていたことになる。

 

当人も、体制に抵抗し、命を懸けてナチスの根絶プログラムから子どもたちを救ったと、第三帝国崩壊後に述べている。

 

ところが記録や史料を調べてみると、まったく別の物語が見えてくる。

 

アスペルガーは、ウィーンの児童殺害システムにさまざまなレベルで関与していた。

 

ウィーンの児童安楽死システムの指導者たちと近しい関係にあり、ナチス政府のさまざまな役職を通じて、何十人もの子どもをシュピーゲルグルント児童養護施設に送っていた。

 

シュピーゲルグルントとは、ウィーンの子どもたちが殺害された施設である。

 

アスペルガーが児童安楽死プログラムに関与していたというこの事実と、障害のある子どもを守ったという周知の事実とは両立しない。

 

だが、どちらも記録にはある。

 

実際、アスペルガーの仕事を詳細に調べてみると、彼の行動には二面性があったことがわかる。

 

治療可能だと思う(「社会に溶け込める」見込みのある)子どもと、治療不可能だと思う子どもを区別していたのだ。

 

つまり、見込みがあると見なした子どもには、集中的・個別的な治療を施す一方で、重度の障害があると診断した子どもには過酷な施設への収容を命じ、ときにはシュピーゲルグルントに送ることもあった。

 

そうしていたのは、アスペルガー一人だけではない。ナチス医学界の先輩医師たちも同様に、第三帝国に貢献できそうな子どもには哀れみ深い第一級の治療を、貢献できそうにない子どもには排除を推奨していた。

 

アスペルガーの行動の二面性は、ナチスのイデオロギーの二面性を表している。

 

第三帝国の人類変革プロジェクトには、治療と排除という二つの面がある。欠陥の程度により、ナチスの基準に合うよう治療や訓練を受けられる人もいれば、排除される人もいた。

 

迫害や排除の対象となる新たなグループを決めるのは簡単だった。

 

第三帝国の指導層は、厳然たる不変のルールブックを作成するのではなく、レッテルを貼り替えるという方法を考案し、それを実行した。

 

レッテルは不変のものではなく、時とともに変わる。欠陥があるとレッテルを貼られた人の中には、ナチスの基準に合うよう矯正できる人もいる。

 

実際、ユダヤ人はすべて抹殺の対象となったが、スラブの伝統を受け継ぐ人々はドイツ化され、「仕事嫌い」の人は労働を教え込まれた。

 

アスペルガーも同様に考えていた。自閉症の中でも「見込みのある」人は、「社会に溶け込める」よう教育を施し、その「特殊能力」を認めてもらうことさえできる、と。

 

第三帝国は、均質な民族共同体を作ろうと、望ましいと見なす人間を増やして統合するとともに、それ以外の人間を切り捨てた。

 

こうした国民浄化の結果、ホロコーストが生まれ、ユダヤ人を600万人以上殺害するという史上最大の大虐殺を引き起こしたが、組織的な根絶プログラムはほかにも無数にあった。

 

第三帝国の政策により、20万人以上の障害者、22万人もの「ジプシー」(ロマやシンティ)、無数の東欧人やソ連人(ソ連の戦争捕虜330万人も含む)が殺された。

 

ナチスは、民族衛生と呼ばれる科学的原理に従い、排除する人間を分類した。劣悪な遺伝子や生理が、望ましくない人間を生み出すという考え方である。

 

このように、体制に所属できるできないの分類を生物学的に決定していたため、後に歴史家は第三帝国を「人種主義国家」と呼んだ。

 

確かに、人種はナチス体制の組織原理となっていた。だが実際のところ、ナチスの根絶プログラムの対象は、さほど明確に定義されていたわけではない。

 

実際、望ましくない人間の排除には試行錯誤があった。定義はあいまいで、政策は一貫せず、時期や場所、当事者により変わった。

 

明確に見えるユダヤ人の定義でさえ、1935年のニュルンベルク法では基準が錯綜していた。後に、ユダヤ人の血を半分引く人間の処遇について議論があったときも同様である。

 

公的機関も、生物学的に劣った人間が何人いるか明確にできなかった。100万人という推計もあれば、最大で1300万人という推計もある(この場合、ドイツ人の5人に1人の割合である)。

 

健全なアーリア人と認められない人間の特定や迫害も、同様に行きあたりばったりだった。

 

「反社会的」な人や「仕事嫌い」の人(犯罪者、失業者、ホームレス、アルコール依存症患者、売春婦など)、男性の同性愛者、政敵(特に共産主義者や社会主義者)、反体制宗教の信者(エホバの証人など)が、そう判断された。

 

逮捕や収容所送り、殺害の決定が、個々の人間や機関に任されることもあった。

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アスペルガー医師とナチス

アスペルガー医師とナチス発達障害の一つの起源

エディス・シェファー(Edith Sheffer)

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