犬の1.5倍の嗅覚受容体を持つ「虫」がいた!――1ミリの「虫」が人類を救う(2)
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2015年3月、「尿一滴でステージ0のがんを9割の確立で発見できる」という実験結果が公開され、大きな話題となりました。その検査に用いられたのは、たった1ミリの生物! 非常に高い精度でがん患者の尿の匂いを嗅ぎ当てる「線虫」とは、一体何者なのか? 2020年の線虫がん検査「N-NOSE(エヌ・ノーズ)」実用化で、世界のがん検診・がん治療はどう変わっていくのでしょうか。第2回の今回は、なぜがん検診に機械でも犬でもなく「線虫」なのかをご紹介します。
※本稿は、広津崇亮『がん検診は、線虫のしごと 精度は9割「生物診断」が命を救う』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

 

 

◆なぜ、機械でも犬でもなく、線虫なのか

 

「線虫」と「がん検査」がつながるには、3つの発想の転換が必要でした。

 

1つ目は、モデル生物としての線虫から、線虫の能力そのものを生かすことへの転換です。

 

線虫がん検査は、線虫の能力、具体的には鋭敏な嗅覚を活用していますが、私がこれを活用しようと考えついたのは、一つには大学院生の頃から一貫して線虫の嗅覚研究を行ない、線虫が鋭い嗅覚を持つことを知っていたからです。

 

ただし、線虫が鋭い嗅覚を持つことは、私に限らず、世界中に何万人もいる線虫の研究者ならば誰もが知っています。

 

ところが、誰一人として線虫の嗅覚そのものを活用しようとは考えませんでした。いったいなぜでしょうか?

 

おそらくそれは、モデル生物としての線虫があまりにも優れていたからだと思います。

 

人の嗅覚の仕組みを知るために、線虫の嗅覚を研究する。人の体に起こる現象を理解するために、線虫を研究する。普遍的な生命現象を解明するために、線虫を研究する。

 

線虫がモデル生物として確立された1960年代以来、何十年間にもわたってそのような利用法が当然だったために、線虫の能力そのものを活用しようという発想にならなかったのです。

 

私自身も、20年以上にわたって線虫を研究してきましたが、モデル生物としてしか見ていませんでした。

 

それがこのとき「線虫の嗅覚そのものを活用しよう」と発想できたのは、研究室の運営資金を稼がなければならなかったからです。

 

当時、とある事情から、助教であるにもかかわらず自分の研究室を持ち、研究費を自前で調達しなければならなかった私は、線虫を使って何かできないかと始終考えていました。

 

たとえば、線虫に嗅がせると寿命が延びる匂いや記憶力がよくなる匂いを突き止めて、それを実用化できないかといったことです(じつはこれ、いいところまでいきました)。

 

そんなある日、がん探知犬の研究をしている人と話す機会がありました。みなさんも、犬ががんの匂いを嗅ぎ分ける話を、テレビや新聞でご覧になったことがあるのではないでしょうか。

 

「へえ、犬がねえ」「まあ、犬は鼻がいいからね」などと思われたのではないかと推察しますが、私はこう思いました。「犬にできるなら、線虫にもできるに違いない」と。なぜならば、線虫は犬よりも「嗅覚受容体」の数が多いのです。

 

匂いは、匂い物質の分子を嗅覚神経にある嗅覚受容体が受け取り、電気信号に変換されて嗅覚神経を遡り、脳に伝わります。この匂いを受け取る嗅覚受容体が、犬は約800種類であるのに対して、線虫は約1200種類もあるのです。ちなみに人は約400種類です。

 

というわけで、「線虫もがんの匂いを嗅ぎ分けられるに違いない」とひらめいた私は、早速実験に取り掛かりました。

 

◆生物の嗅覚は、機械には再現できない

 

発想の転換の2つ目は、機械による診断から生物診断への転換です。

 

生物の能力を活用してがんの有無を判定することは、私にとっては発想の転換というよりは自然な流れでしたが、もしも私が医師だったとしたら、ありえないことだったと思います。

 

医学的検査といえば精密機器を使うのが当然ですし、犬まではなんとかイメージできても、芥子粒(けしつぶ)のように頼りない生物でがん検査をするなどとは、想像もできないし信用もできなかったはずです。

 

しかし私は医師ではありませんから、「これはおもしろそうだ」「きっとできるに違いない」という発想で研究を始めることができました。

 

医師ではなく生物学者であるからこそ、「機械で生物の嗅覚を再現するのは不可能」と言われるほど生物には素晴らしい嗅覚が備わっていること、生物に匹敵するほど高性能な匂いセンサーを作ろうとしたら途方もないお金と時間と労力がかかってしまうであろうことを、深く理解していたのです。

 

高性能な匂いセンサーとは、「感度」と「選択性」の2つがともに高いことを意味します。

 

「感度」とは、そこにあるものを「ある」と判定する能力です。したがって、匂いの感度が高いとは、微かな匂いでも嗅げること。言い換えれば、匂い物質が非常に微量であっても検知できることです。

 

「選択性」とは、多くの情報の中から、特定の情報だけを拾い出す能力をさします。匂いの選択性とは、種々雑多な匂いの中から目的の匂いだけを嗅ぎ分ける能力です。

 

この感度と選択性が、生物の嗅覚には自然に備わっています。そのため線虫や犬は、尿というさまざまな匂い物質が溶け込んだ液体の中から、ごく微量のがんの匂いを嗅ぎ分けることができます。

 

ところが機械では、ごく微量の匂い物質を検出しようとして感度を上げると、そのほかの匂い物質も同時に拾ってしまい、目的の匂いだけを拾い出せないのです。

 

もちろん、生物の嗅覚とまではいかなくとも、感度と選択性がともに高い機械を作ることはできるかもしれません。ただ、そのような機械を作った場合には非常に高価でしょうから、その機械を利用して行なう検査も高額になります。

 

1回何十万円もするような検査になってしまい、作ったはいいけれど誰も受けられない、という結果になる可能性が高いのです。

 

ところで、よく質問されることの一つに、「検査にAIを使ったらどうなるんですか?」があります。「AIを使ったら問題の正答率が90%になった」というような報道がしばしばあるからでしょう。みなさんは、どう思いますか?

 

AIがあるのとないのとでは、あった方が、いろいろな情報を効率よく処理できるという意味では、いいと思います。

 

ただし、いくらAIが優れていても、検知するのはセンサーですから、センサーがよくなければ意味がありません。8Kテレビを買っても、番組自体が8Kで撮影されていなければ、高精細な画像にならないのと同じです。

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