BW_machida
2020/06/29
BW_machida
2020/06/29
次のようなシナリオについて想像してみてほしい。
あなたは長く狭い廊下を抜け、奥の暗い部屋へと導かれる。あなたは椅子に坐り、フランツ・カフカの短篇小説の朗読の録音を聴く。次に、いましがた耳にした内容についての記憶力テストを受ける。テストが終わると、あなたは部屋を出て再び廊下へと戻る。しかしカフカの小説を聴いているあいだに、スタッフたちはせわしなく作業を続けていた。その廊下はじつのところ、仮のパーティションで仕切られた空間でしかなかった。いまや廊下のパーティションは取り払われ、がらんとした広い空間に変わっている。その空間は、明るい緑色の壁で囲まれている。天井から電球がひとつだけ吊り下がり、鮮やかな赤い椅子を照らしている。椅子に坐るのは、重苦しい表情を浮かべたあなたの親友だ。つまりあなたは、数分前と同じ狭い廊下に戻ると思いながら扉を開ける。なんとびっくり、さっきまで廊下だった場所にだだっ広い空間がある! そして、ホラー映画の登場人物のごとく親友があなたを見つめている。
あなたは驚くだろうか? もちろん驚くに決まっている。では、そのときのあなたはどんな表情を浮かべるだろう? 今日の西洋社会に生きる私たちの文化のなかでは、「驚きの表情」の典型例がはっきり確立されている。テレビドラマ『フレンズ』のエピソードのなかに完璧な例が出てくる。ロスのルームメイトのジョーイがモニカのアパートメントに駆け込んでくると、親友のふたりが大喧嘩していることを知る。そのときのジョーイの顔には、典型的な「驚きの表情」が広がっている――眉を上げる+眼を見開く+ぽかんと口を開く。では、驚いたときのあなたもジョーイと同じ表情を作るだろうか? いや、そうではない。
ドイツ人の心理学者アヒム・シュッツウォールとレイナー・ライゼンザインは、さきほどの状況を緻密に作り上げ、60人の被験者に体験させた。カフカの朗読が終わったあとに扉を開けたときの驚きの感情がどれほど典型的なものに近いか、60人の被験者は10点満点で自己採点した。平均は8.14点で、実際に彼らは頭のなかではびっくり仰天していた。当然、質問された被験者のほぼ全員が、自分の顔いっぱいに驚きの表情が張りついていたにちがいないと答えた。が、ちがった。シュッツウォールとライゼンザインは部屋の片隅にビデオカメラを置き、被験者たちの表情を符号化した。眼を見開き、眉を上げ、ぽかんと口を開き、典型的な驚きの表情を作った人は全体のわずか5パーセントだけだった。三つのうちふたつの筋肉を動かしたのは、全体の17パーセント。残りの被験者の顔には、このような筋肉の動きの組み合わせはほとんど見られないか、少ししか見られなかった。あとはせいぜい顔をしかめる程度で、それはかならずしも驚きと関連する表情ではなかった。
「参加者はすべての条件下において、驚きにたいする自分の表現能力を著しく過大評価していた」とシュッツウォールは論文に綴った。なぜか? 「驚くべき出来事が起きたときに自分が浮かべそうな表情を、感情と顔についての民族心理学的な思い込みにもとづいて推測していたからだ」。民族心理学とは、テレビドラマなどの文化的な情報源から私たちが導きだす不完全な心理学のようなものだ。しかし、現実の生活のなかでそのような展開になることはめったにない。透明性は神話にすぎない――主人公が「驚いて口をぽかんと開け」「びっくりして眼を見開く」テレビや小説の世界に染まりすぎた私たちが、勝手に作り上げた考えでしかないのだ。シュッツウォールはこう続けた。「参加者は実際に驚きを感じたため、そして驚きは特徴的な表情と関連しているため、自分もその表情を浮かべたにちがいないと考えた。ほとんどの場合、そのような推論はまちがっていた」
私が思うに、この誤り――外側と内側で起きていることが完全に一致するという思い込み――は友人同士の場合はたいした問題にはならないはずだ。誰かと親しくなるというプロセスはときに、相手の感情表現がどれほど典型例と異なるのかを理解することを意味する。しかし、見知らぬ他人に向き合うとき、私たちは直接的な経験の代わりに“固定観念“にもとづいて考える必要に迫られる。往々にして、その固定観念はまちがっている。
ここまでの議論を読めば、裁判官よりもコンピューターのほうが保釈について優れた判断を下せるのはなぜか、という謎の答えがおのずと見えてくる。
コンピューターは被告人を実際に見ることはできない。が、裁判官は見ることができる。この追加情報によって彼らはよりよい判断を下すことができるはずだ、と考えるのはいかにも論理的に思える。ニューヨーク州の裁判官のソロモンは眼のまえに立つ人物の顔を見やり、精神疾患の兆候を探すことができた。生気のない眼つき、不安定な情動、眼の奥の嫌悪……。被告人はわずか3メートル先に立っており、ソロモンは評価対象者を感覚的にとらえることができた。にもかかわらず、追加情報はほとんどなんの役にも立たなかった。驚いた人が、かならずしも驚いたように見えるとはかぎらない。精神的な問題を抱えた人が、つねに精神的な問題を抱えているように見えるわけではない。
数年前、テキサスで起きたある事件が大きな話題になった。パトリック・デイル・ウォーカーという名の若い男性が、元交際相手の女性の頭に銃を突きつけた事件だ。彼は引き金を引いたものの、たまたま銃が詰まって弾は発射されなかった。訴訟を担当した裁判官は、保釈金をいったん100万ドルに設定した。しかしウォーカーが拘置所で4日間過ごしたあと、保釈金は2万5000ドルに引き下げられた。心を落ち着かせるために充分な期間が過ぎたと裁判官は考えた。「ウォーカーには前科がなく、交通違反さえ犯したことがありませんでした」と裁判官はのちに証言した。ウォーカーは礼儀正しかった。「彼は控えめで温厚な若者でした。私には、とても賢い青年に見えました。成績も優秀で、卒業生総代に選ばれるほどの人物だった。大学もしっかり卒業していた。事件の被害者は、彼にとって人生ではじめての交際相手のようでした」。くわえて裁判官にとってなにより重要なことに、ウォーカーは深い反省の念を示していた。
ウォーカーは透明でわかりやすい存在だと裁判官はとらえた。しかし、「反省の念を示す」とはいったい何を意味するのか? 頭をがくりと下げ、伏し目がちにして悲しい表情を作ったのだろうか? 1000のテレビ番組で人々が反省の念を示してきた姿を真似したのだろうか? 誰かが頭をがくりと下げ、伏し目がちにして悲しそうな顔を作る姿を見ると、その人物の心のなかで大きな変化が起きたと私たちが考えてしまうのはなぜだろう? 人生は『フレンズ』ではない。ウォーカーと対面したことは、裁判官の助けにはならなかった。それどころか悪い影響を与え、単純な事実を見過ごしてしまうことになった――ウォーカーは元交際相手の頭に銃を突きつけて殺そうとしたが、たまたま発射されなかったので未遂に終わった。四カ月後、ウォーカーは元彼女を射殺した。
ムライナサンの研究チームはこう説明する。
実際に対面しないと気づきにくい要素――気分などの心の状態、あるいは被告人の外見といったやけに重視されがちな目立つ特色――は、裁判官の予測を誤った方向に導いてしまうことがある。それらの要素はどれも、個人的な判断のための情報源というより、むしろ予測ミスのための情報源となる。人が気づきにくい要素は、手がかりではなく雑音を作りだすだけだ。
すなわち、コンピューターにはなく裁判官だけが持つ強みは、実際には強みなどではない。
私たちは、ムライナサンの研究から論理的な結論を導きだすべきだろうか? つまり、被告人を裁判官から隠すべきだろうか? たとえば、女性がニカブをまとって法廷に現れたときに取るべき正しい対応は、訴訟を取り下げることではなく、全員がベールを身につけるべきだと判断することかもしれない。さらに、こんな疑問も浮かび上がってくる。ベビーシッターを雇うまえに実際に本人に会う必要があるのか? あるいは、会社で誰かを雇うまえに対面式の面接をするのは正しいことなのか?
しかし当然ながら私たちは、個人的な接触を拒むことなどできない。すべての大切なやり取りが匿名化されたら、世界は機能しなくなってしまう。ソロモン裁判官に、私はまさにこの質問を投げかけてみた。彼の答えはじつに示唆的だった。
著者 被告人に対面できなかったらどうなりますか? 何かちがいがありますか?
ソロモン そちらのほうを好むかという意味ですか?
著者 ええ、そちらのほうを好みますか?
ソロモン 私の脳の一部は、そのほうがいいと言っています。なぜなら、誰かを刑務所送りにすると決めることの苦労が少し減るからです。しかし、それは正しいことではありません……私たちが向き合わなければいけないのは、国家によって身柄を拘束された人間です。国家は、ひとりの人間から自由を奪う理由を正当だと説明しなくてはいけない。ですよね? でも対面しなければ、彼らは小さな機械のように扱われてしまうかもしれない。
よく知らない他人に対応するための私たちの戦略には大きな欠陥がある。が、それは社会的に必要なものでもある。私たちは、刑事司法制度、雇用プロセス、ベビーシッター選びがより人間的であることを望む。しかし人間性を求めるというのは、膨大な量のまちがいを許容することを意味する。それが、よく知らない他人との対話に潜む矛盾だ。私たちは彼らと話をする必要がある。でも、話すのがひどく苦手だ。くわえて、私たちは「ひどく苦手」であるという事実を互いにつねに正直に打ち明けようとするわけでもない。
ソロモン 私の脳のほんの一部が「そうそう、相手を見ないほうがより簡単さ」と言っているのだと思います。しかし実際には、私のことを見ている人がいて、私も彼らを見ている。たとえば被告人側の弁論のあいだ、傍聴席の家族が私に手を振って合図してくることもあります。家族三人がそこで裁判を見守っているのです。それが、正しい裁判の在り方です……ほかの誰かの人生に影響を与えている、とつねに心がけておくことが大切です。軽く考えてはいけません。
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