ryomiyagi
2020/02/17
ryomiyagi
2020/02/17
※本稿は、エイミー・ウェブ著/稲垣みどり訳『BIG NINE』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
現代のAI(人工知能)のルーツは、米国のグーグル、アマゾン、アップル、IBM、マイクロソフト、フェイスブック、中国のバイドゥ、アリババ、テンセントといったテクノロジー関連の九つの巨大企業「ビッグ・ナイン」が、Siri(シリ)やAlexa(アレクサ)、あるいはTmall Genie(天猫精霊)を生みだすはるか前、何百年も昔にさかのぼる。
当時は他の技術と違って、AIには定義がなかった。現在でもAIの領域は広がりつづけ、多岐にわたるため、AIを具体的に説明するのは簡単ではない。1950年代にAIと見なされていた長除法【割り算の筆算で、計算過程を書きながら計算を進める方法】ができる計算機などは、現在ではもはや高度なテクノロジーとはいえない。
これは「奇妙なパラドックス」と呼ばれている現象である。新しい技術が発明され、それが主流になっていくと、もうその技術は注目されなくなってしまう。それをAIだとさえ思わなくなる。
基本的に、AIは自律判断をするシステムだといえる。AIが行うタスクは、人間と同じことをするか、まねをするかだ。たとえば、音やモノを認識したり、問題を解いたり、言語を理解したり、ゴールを達成する戦略を練ったりする。
システムによっては何百という計算を素早く行う一方で、メールの文面の中に汚い言葉が使われていないかを検出するような限定的なタスクもある。
私たちはこれまでも、同じ質問を繰り返してきた。機械に考えることはできるのだろうか? 機械が「考える」とはどういうことだろうか?
私たちにとって「考える」とはどういう意味だろうか? そもそも「考え」とはなんだろうか? どうすれば私たちは、一点の曇りもなく、自分自身で考えているといえるのだろうか?
こうした問いかけを私たちは何百年も前から繰り返しているが、それはAIの歴史と未来の両方にとって大切だ。
機械と人間がどう考えるのかを調べようとするときに問題となるのは、「考える」という言葉が「心」と結びついていることだ。これまで、心理学者、神経科学者、哲学者、神学者、倫理学者、コンピューター科学者などが、「考える」という概念にそれぞれのアプローチで取り組んできた。
メリアム=ウェブスターの辞書では、「考える」という言葉を「心に形づくる、あるいは思い浮かべる」と説明している。
また、オックスフォードの辞書では「心を積極的に使い、つながりのあるアイデアを生み出す」としており、どちらも「意識」の文脈で定義しているが、そもそも「意識」とはなんだろうか。
いずれの辞書でも、「意識」は「気づいて反応する状態」だと定義されている。
たとえば、あなたがアレクサを使ってお気に入りのレストランを予約しようとするとき、あなたもアレクサも、食べることについて相談していると認識している。
だがアレクサは、リンゴをかじったときの感触を実際に味わったことはなく、炭酸水のシュワシュワとした泡を舌で感じたこともなければ、ピーナッツバターが口の中で粘りつく感触も知らない。
とはいえ、こうしたモノについての詳細な情報を求めれば、アレクサはあなたの体験をもとになんでも教えてくれるはずだ。
アレクサには口がないのに、どうやってあなたと同じように食べ物を認知できるのだろうか?
あなたは生物学的に唯一無二の存在であり、あなたの唾液腺や味蕾(みらい)は私のものと同じではない。しかし、私たちは誰もがリンゴとはどういうものかを知っているし、一般的にどういう味がするのかも、感触も、香りも知っている。
それは、生活の中での学習を通じてリンゴとはどういうものかを学んだからだ。リンゴがどういうものなのかを誰かが教えてくれたのだ。そして、時間が経つにつれ、意識しなくても自動的にパターン認識が可能になり、たとえデータが少ない場合でも、それがリンゴかどうかを判別できるようになる。モノクロでも、二次元でも、リンゴの輪郭を見れば、それとわかるようになるのだ。
それはつまり、味や香り、食感などのデータがなくても脳が「これはリンゴだ」と判断するということだ。こう考えてみると、あなたのリンゴについての学習方法は、アレクサのそれと思いのほか似ている。
アレクサは有能である。だが、果たして「知的」といえるだろうか? その認知能力が人間のそれとすべて同じ質にならなければ、アレクサの「考える」方法は私たちと同じとは認められないのかもしれない。
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