BW_machida
2020/08/17
BW_machida
2020/08/17
愛情や結婚といった理由なしに性交するとき、もしかすると人は性から自由になるのかもしれない。そんなことを考えたのは、富岡多恵子さんの『芻狗』を読んだからだ。
女主人公の「わたし」は若い男との性交にしか興味がない。物語は性交と、それに至るまでの過程でほぼ占められている。その性交というのが、本当にその行為そのものなのだ。
そもそも、セックスという行為自体には愛や心はいらない。人間が生まれたり、死んだりすることに理由がないのと同じように。行為そのものは、本来、愛や結婚という制度に捕らわれない自由なものだ。だから主人公は、白々とした潔さで行為に及ぶ。彼女はセックスのために青年たちと会うが、そのための言葉をもたない。いつも考えるのは、どのような手順で性行為に運んでいくのか、とか、他人の肉体の一部が具体的に自分のなかに入ることの不思議さだけで、自分の肉体と相手の肉体が交わることへの興味関心のみだ。
たとえば、彼女は、行為のあとに「赤ん坊ができたらどうする?」と相手の男に尋ねては、その困惑顔を見る楽しみを抑えることができない。
「見知らぬ男の性器が、自分の肉体という袋をすっかり裏がえしてくれる」のを期待している彼女は、全身を駆使するこの行為を通して、相手と自分の肉体のなかの肉体でない部分を知ろうとしているのかもしれない。
だから男と交わるとき、「わたし」は自身に問いかけるのだ。「わたしはいつも、男の肉体の一部が女の肉体の一個所に入ることが、あまりに簡単にあっけなく行われるのに驚かされる。男の肉体の一部が、まさにするりと自分に入ってしまって、簡単に物理的に結合の形になることが、なんとなく滑稽な感じさえ起させる。」
男と女の関係が社会の内にあるとき、性を社会という制度に組み入れる入り口の一つは結婚、もう一つは子供である。性が生殖につながる以上、女は性の全体性を背負わなくてはならないからだ。著者は性的に自由な、動物的な女を描いているが、そのふるまいは男にとっての自由さとまったく同じものではないのだろう。青年たちのほうも、セックスするために女主人公についていくのだけど、彼らは欲望にそれほど自覚的ではない。『芻狗』の世界には、性についての愛もなければロマンもない。
ところで、『芻狗』の女主人公は、名前を持たない。著者は「わたし」という一人称の主人公を、相手の男に「××さん」と呼ばせているのだ。
性の自由とはいったいなんだろう。
名前が用をなさない世界で、そのうえ愛や生殖といったしがらみから解放されたとき、男と女が手にする自由はどのようなものだろう。もちろん、性は多くの観念から成り立っている。でも、もし性交から心理的、社会的なものが失われたなら、最後に残るのは、純然たる〈身体〉だけのような気がする。
『芻狗』
富岡多恵子/著(講談社)
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