学校では学力は伸びない!リモート学習の先に見える未来
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ryomiyagi

2022/02/28

 

中国・武漢から始まった未知のウィルスによるパンデミックは、3年目を迎えた今も何度も変異を繰り返し世界に脅威を与え続けている。おかげで世界経済は低迷し、人びとの暮らしも大きく様変わりした。中でも、これから社会に出て行こうとする若者たちの生活は、コロナ以前は思いもよらなかった変貌を見せている。
「大学入試センター」(独立法人)のHPを開けば、「令和4年度共通テスト新型コロナウイルス感染症対策等について」と題した項目が最初に目に入る。
そこには、「発熱・咳等の症状があるなど、体調不良を申し出た受験者の休養室等での対応」
だとか「令和4年度大学入学共通テスト 健康状態チェックリスト」などなど、それでなくてもストレスフルな受験生にとって、堪らない雑事が並んでいる。

 

「学校は教育と同時に集団生活による社会教育の場」などと言われた時代があった。昨今言われる過疎地は別だが、真新しいランドセルを背負った新小学生は、「友達100人作るんだ」と勢い込んだものだ。とは、今や昔……。
三密回避やソーシャルディスタンスはもちろんのこと、互いの素顔も知れないマスク姿でたまに登校しても、クラスから陽性者が出るたびに学級閉鎖を繰り返す。これでは教育現場は堪ったものではないだろう。などのニュースに思いを寄せる日々に、本書『学校では学力が伸びない本当の理由』(光文社新書)を手に入れた。著者は、京都大学大学院を卒業後、大手新聞社の記者となり、その後フリーランスとしなりカンボジアやパレスチナなどの貧困地帯や紛争地域を取材した後教育者に転身し、2012年度読売教育賞優秀賞を受賞するなど、国内外の中等教育校のスーパーバイザーやインストラクターを務める林純次氏。コロナ以前から顕在化していた、教育現場の問題点を生々しく訴える本書に、コロナを契機に推進すべきヒントが並んでいた。

 

「学校には“内職”をしに行っている感じです」
「受験が近いんで学校を欠席しています」
こういう受験前の児童・生徒の本音を、学校教師として、また予備校講師として多数聞いてきた。受験での合格という自己利益を優先する行為は、学校中心主義の人々からは嫌われ、徳育の観点から教員には厳しく咎められる。
しかし、これは矛盾していないか。
学校の授業が自分にとって低次元だから、あるいは自分にとって必要のない科目だから、授業内容とは関係のない”内職”行為をしたり、学校を欠席したりする。当然の思考ではないか。
そういう事態を防ぐには、質の高い授業を用意し、学ぶタイミングや量、順序が考え抜かれたカリキュラム設定が行われて然るべきではないか。それができないから、児童・生徒から「学校では学力が伸びない」と思われるのである。大人の側が、もっと適切なプログラムを用意するべきだろう。

 

本書のプロローグは、そんな言葉から始まる。
至極当然の言葉だ。以前、こんなことを聞いた。
「100年前の医者は働けないが、100年前の教師は働ける」という皮肉。思い返してみれば、中学生の時の国語教師が、学生時代から使っているのではないか……。と思えるような、使い古したノートを開いて授業をしているのを見て、うんざりした覚えがある。
もしかするとそのノートは、毎回授業のたびに思いつくことでも書き込んだ、教師にとっては「秘中の秘」とでも言える一冊だったかもしれない。使い込んで古びたものがいけないわけでもない。真相は知れないが、ただその時の私は、この目まぐるしく変わる情報社会に出て行こうとする私たちが、古色蒼然とした価値観を押し付けられているようでうんざりとしたのだった。

 

2008年に改訂された学習指導要領では、小中高いずれの校種においても「生きる力」が強調され、知・徳・体のなかで「知」については「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、さまざまな問題に積極的に対応し、解決する」(小学校)ものと具体化された。(中略)
これが可能となるためにはいかなる力を身につけておく必要があるだろうか。私の答えは認知力と暗記力である。まず、自分以外の場所に存在する情報を認知できるか否か。有り体に言えば、文字が読めるか、音が聞き取れるか、といったレベルの力である。
教員は特別なトレーニングを受けた者以外に、この能力の向上を十分に達成させられない。なぜなら、認知能力に欠陥がある児童・生徒の向上方法など教職課程で学ばないからだ。また教職に就いた後もこの分野の学習ができる機会は多くない。
例えば、文章を読んでいて次の行に移った途端、どこを読んでいたかわからなくなる生徒や、口頭で指示した内容をほとんど記憶できない生徒、緘黙傾向があってスピーキングが全くできない生徒や、黒板・ホワイトボードに書いた文字をノートに書き写せない生徒などを担当したとき、自分が指導者として何ができるか考えてみて欲しい。(中略)
私は重度知的障害や知的障害、盲聾の児童生徒のことを言っているのではない。普通学級に座っている生徒のなかに10%前後、このような特性のある生徒がいるのである。

 

教育の機会とシステムは平等に与えられなければいけない。その通りである。ゆえに、現代の教育現場においては、特に小学校などには、定年を迎えた元教師などが補助教員として授業に参加したり、個別に指導したりしているらしい。涙ぐましい試行錯誤である。
そんなトライアルが上手くいけばいいが、そうでない場合も多いに違いない。
何より大きな問題は、ここで語られる問題を抱えた児童・生徒に正しい指導が与えられたかどうか以前に、その間、残る90%の児童・生徒が放置されていることだ。教育における平等とは何か。現在それは、年齢による平等でしかない。これですら、4月生まれと翌年の3月生まれでは、およそ1年(1歳)の隔たりがある。これが小学生の低学年時においては相当な違いになるはずだ。同じく新1年生であっても、3月生まれの児童は、まだ幼稚園児と変わらないのだ。そしてそれは、学習のみならず体育においても同様であろう。そんな両者が、同じ教材で学習するのである。これは、どちらにとっても不都合なことであり、不幸ですらある。これを「悪平等」と呼ぶ。

 

日本でも飛び級や留年の制度を取り入れるべきと考える。年齢による平等性は悪平等である。能力における平等性を追求すべきなのだ。
「下の学年と一緒になったらいじめられる」とか「その子の能力の低さが明らかになってしまう」「かわいそうだ」といった観点から批判と反対がされてきているが、精緻な想像をして欲しい。学習する授業レベルが高過ぎで何もわからないまま小学生が45分、中高生が50分、教室の自席に座り続けている光景を。これが1コマだけの話ではなく、一日6、7コマ続く子だっている。これは拷問だ。教育ではない。わかるから楽しい、と感じられるのが人間の一般的心理だろう。
逆に、劇的に容易な課題を遅々として進まないペースで扱われる光景はどうだろうか。1コマ程度ならまだしも、ほぼ一日中、その状況。勝手に先の問題を見たり、居眠りをしたりすると叱られることもある。このとき、黙って座っていることや空気を読んで敢えて発言をすることが社会の求める協調性なのだろうか。

 

ここでいわれる現行の学校制度の中で、苦々しくもドロップアウトしていった友人やクラスメイトの顔が浮かぶ。
親や教師が驚くほどの学習能力を持っていたにも関わらず、あっという間に授業に関心を失くし、中学・高校と進むうちにドロップアウトしていった秀才児や、言語能力が追い付かないまま学齢だけが進み、暴力生徒と化してしまった友人。前者は、今も何かを持て余したまま社会の底辺に生きているし、後者はその後、中卒で社会に出、後に会社を立ち上げ目覚ましい活躍を見せている。言うまでもなくそこには、それぞれの努力のほどが問われる。しかし、いずれの場合も、ただ一様に年齢でのみ区切られる教育カリキュラムではなく、その時々の能力値に合わせた教育が為されていたなら、どちらももっと有意義な人生が送れたに違いない。

 

21世紀人類が迎えたコロナウィルスは、身体的な脅威と同時に、「リモートワーク」や「オンライン授業」など、ハイテクノロジーな社会がゆえの逃げ道を示してくれたように思う。
「オンライン授業」ならば、飛び級による「無学年制」が導入できるのではないだろうか。
本書『学校では学力が伸びない本当の理由』(光文社新書)は、目を覆いたくなるような現状の学校制度を憂うと同時に、学校教育の明るい未来を期待させる、心に逞しい一冊だった。

 

文/森健次

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林純次(はやしじゅんじ)

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