BW_machida
2022/03/15
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2022/03/15
イアン・レズリー:作家
ソクラテスの時代から、理性は人類が持つ最高の資質であり、ほかの種とは一線を画す力であると言われてきた。だがここで、むずかしい疑問が湧き上がる。真実に向かって理性を働かせることが人類最大の武器だとしたら、なぜみんなそれを苦手としているのか?
もしあなたが、人々を正しい信念や適切な判断へ導くように言われたら、おそらく彼らみずからが自身の誤りに気づく能力を高めることから始めるだろう。結局のところ、だれも間違っている可能性を十分に検討してからでなければ、自分が正しいとは言い切れないのだから。しかし私たちは、一般的にそうした作業が大の苦手だ。たとえ目の前に反証を突きつけられても、自分の意見に固執してしまう。もし私が世界情勢は急速に悪化していると考えていたら、悪いニュースばかりに目を向け、良いニュースは視界から排除するだろう。ある政治家が有能だと思ったら、その人の功績だけに注目し、失態からは目をそらすだろう。月面着陸がでっち上げだと判断したら、同じ見解のユーチューブ動画を探して、反証を払いのけるだろう。
人は自分の信念を裏づける証拠には注目するが、その逆を示すものは無視する傾向が強いことが、心理学者によって疑いの余地なく明らかにされている。自分が間違っているかもしれないという可能性を本能的に嫌うので、理性の力を総動員して自分は正しいと思い込み、理論武装で周囲の世界をねじ曲げるのである。こうした性質は「確証バイアス」と呼ばれ、人類にとって深刻な問題とみなされている。人はこの性質が原因で、自分を欺き、嘘を信じ込み、他人の視点に立ってものが考えられなくなる。タフツ大学の心理学者であるレイモンド・ニッカーソンは、「人間が理性を働かせる際、何よりも注意を払うべき点をひとつだけ挙げるとすれば、確証バイアスがその候補となるだろう」と言っている。知能が高いからといって、この問題を避けられるわけではない。研究によると、知的で教養深い人は、自分を正当化する主張を生み出すことに長けているため、みずからの正しさを自分自身に納得させるのが得意だという。
だがここで、ひとつの謎が浮かび上がる。なぜ進化はこのようなツール、すなわち信じられないほど高度でありながら、お店で買ったら返品したくなるような欠陥品を、私たちに授けたのだろうか? この疑問に対して、ユーゴー・メルシエとダン・スペルベルという進化心理学者が興味深い回答をしている。いわく、理性という力が真実を見つけ出せないとしたら、それは真実の追求が本来の目的ではないからだ。理性は、人が議論するのを助けるために進化したのだ。
ホモ・サピエンスは非常に協力的な種である。ほかの種より小さく、力も弱い。ネアンデルタール人とくらべ体格も痩せっぽちだ。にもかかわらず足を踏み入れたほぼすべての環境を支配できたのは、ひとえに物事を協力して成し遂げるのが得意だからだ。人間は目的のために、ほかの人間とつき合うための複雑な能力を獲得してきた。メルシエとスペルベルの見解では、理性はそのような社会的スキルのひとつである。理性は獲物を狩ったり、火を熾おこしたり、橋を架けたりと、人が他者と共同で作業できるように進化したのだ。人は理由を言ったり尋ねたりすることで、他者に影響を与え、その人を味方につけることができる。また、自分の行動に説明をつけることもできる(「よし、それじゃあ、どうしておれがマンモスの肉を多くとったのかを説明しよう」)。理由を思いつく能力の利点は、それを他人に提示して自分の主張を裏づけたり、相手の主張を打ち破ったりすること、つまり議論をすることにある。
理由を説明する能力に長けた者が生き残り、遺伝子を残す可能性が高かったであろうことは想像に難くない。理由を述べたり、検討したりすることができれば、暴力的あるいは致命的となりかねない対立も、話し合いに変えることができる。こちらが火を熾したいと思っていて、相手が住みかを作りたいと思っている場合でも、どちらかをめぐって戦うのではなく、賛成と反対の理由を出し合うことができる。こうしたやり取りが得意な者は、危機を回避する能力にも長けており、グループ内で自分の能力をアピールして味方を獲得したり、将来のパートナー候補に好印象を与えたりすることができる。
メルシエとスペルベルは「主知主義者(インテレクチュアリスト)」ならぬ「相互作用論者(インタラクショニスト)」だ。主知主義者にとって理性の本質とは、個人が世界の知識を得られるようにすることである。しかしこれまで見てきたように、理性は自分が信じたいことを確立するために使われることが多いようだ。それが真実かどうかは二の次なのである。一方、相互作用論者の見解では、理性が進化したのは、個人が真実に到達するのを助けるためではなく、コミュニケーションと共同作業を促進するためだ。言い換えれば、理性を働かせるとは本質的に社会的な行為であり、議論の過程でほかの人々と実践して初めて、私たちは賢くなれる。ソクラテスはそのことに気づいていたのだ。
どんな問題も自分の頭で考えて解決できる孤高の人間(たいていの場合、男性を指してきたが)という神話は、魅力的だが誤解を招くものだ。人類はこれまで膨大な知識を蓄積してきたが、私たち一人ひとりが知っていることは、想像よりもはるかに少ない。2002年、心理学者のフランク・カイルとレオニド・ローゼンブリットは、ファスナーの仕組みについて自分がどれくらい理解しているかを人々に自己評価してもらった。回答者はもちろんちゃんと理解していると答えた――なにしろ、年がら年中使っているんだし。しかし、では具体的にファスナーの仕組みを説明してくださいと言われると、まったく答えられなかった。それは気候変動や経済について説明を求められたときも同じだった。私たちは自身を取り巻く世界について、自分が思っているよりもずっと無知だ。認知科学者はこの現象を「説明深度の錯覚」あるいは単に「知識の錯覚」と呼んでいる。
人類が地球を征したのは、「自分の頭で考える」ことができたからではない。「集団で考える」という唯一無二の能力があったからだ。正しい服の着方からコンピューターの操作まで、人が他人の知識に頼らずにできることは何ひとつない。私たち一人ひとりが、死者から受け継がれ、生者のあいだで共有される膨大な知のネットワークに接続されている。あなたのローカル・ネットワークがオープンで流動的であるほど、あなたは賢くなれる。オープンな意見の対立は、他人の専門知識を拝借しながら、自分の知識を共同のプールに注ぐ主たる方法なのである。
しかし、ソクラテスにはわかっていたように、意見の対立が真実を生み出すのは、ある特定の条件下のみである。そのひとつが、メルシエとスペルベルが「認知的分業」と呼ぶものだ。討論では、各人が自分にとって好ましい解決策の理由を探すことに主眼を置き、ほかのメンバーがその理由を批判的に評価するのが望ましい。また、それぞれが仮説を立て、全員でそれを検証するほうが、各々が賛否両方の意見を出し合って評価するよりも、はるかに効率的で適切な判断を生み出せる。
ここから、進化がなぜ私たちに確証バイアスをもたらしたのかという謎が解ける。グループ・ディスカッションがうまくいっている状況では、確証バイアスは本来の目的どおり使用すれば、欠陥ではなく特長となる。だれかから反論されたときのことを考えてみよう。少なくとも、あなたがそれに対して関心を寄せている場合や、自分が正しいと思われることが重要な場合には、正当化のために思いつくかぎりの理由を挙げ、主張を裏づけようとするだろう(メルシエとスペルベルが「確証バイアス」ではなく「こちら側(マイサイド)バイアス」と呼んでいるのはこのためだ。自分のアイデンティティーや地位が脅かされているとき、このバイアスは働くのである)。それは、認知的であると同時に感情的な反応だ。人によっては、感情はいっさい交えず、合理的に主張を検討すべきだと言うかもしれない。だが自分の感情にしたがって正しい論拠を探し求めることで、実際には生産的な行為につながる。問題についての新しい情報やこれまでにない考え方を、グループに提供できるのである。
ひょっとすると、人は利己的あるいは偏狭な理由からそれを行うのかもしれない―自分を正当化し、いかに賢いかを証明したいだけなのかもしれない。だがそうだとしても、みながそれぞれ理由を提示することで、グループ内に多様な視点が生まれる。相手の主張を打ち破るインセンティブによって、弱い主張は淘汰され、強い主張は数多くの論拠で補強されて生き残る。結果として、ひとりでは実現不可能な、深く厳密な思考プロセスが組み立てられる。ジェームズ・エヴァンズの研究によれば、ウィキペディアの編集作業はまさにそうした方法で行われている。ウォーレン・バフェットが考案した投資の意思決定プロセスや、ソクラテスの対話の根底にある原則もまたしかりである。
相互作用論者の視点から見ると、確証バイアスは排除すべきものではなく、利用すべきものだ。適切な条件のもとでは、グループ全体の知性を高めてくれる。では、その条件とは何か? 第一に、グループではオープンに意見を交わすべきだ。一人ひとりが純粋に最高の意見を伝えたいと感じ、実際に発言しなくてはならない。第二に、特に大事なことだが、グループのメンバーは真実や正しい判断といった、共通の関心事を持つべきだ。それぞれのメンバーがただ自分の立場にしがみついたり、ほかのメンバーより優位に立とうとしたりするだけでは、弱い主張が排除されず、グループは発展しない。一人ひとりが確固たる主張を持ち、同時により良い主張に揺さぶられることで、グループは前進する。
確証バイアスは「衝突」そのものと同様に、逆U字型の曲線を描いて機能する(関連記事「親子の意見対立が多いほど子どもの成績は上がる――不和を成果に変える方法」参照)。多すぎるのは良くないが、まったくないのも問題だ。私は以前の職場で、ほとんどの人が自分の主張を述べず、その場で一番自信を持っている人の発言を受け入れるだけの会議に参加したことがある。これでは議論は活気がなくなり、支配的な見解を検証し発展させることもできなくなる。また、恋愛関係と同じように、この人たちははたしてプロジェクトに献身的に取り組む気があるのだろうかという不安にも陥りかねない。さらに、会社の経営者たちはひょっとすると「反論されたくない」「反対者にはペナルティを与える」と考えているのではないか、という疑いを抱いてしまう。
一方で私は、さまざまな人が自分の主張を押し通そうとしている会議に出席したことがある。参加者は時に、議論において妥当と思われる範囲を逸脱して意見を交わしていた。そのような議論は、騒々しく不快なものとなりうるが、概して質が高く、敬意を持って交わすことで、チームのメンバー間の距離を縮めることができる。とはいえ、自分の意見を絶対に曲げない人は、みなの時間を無駄にしてしまう。逆U字型の対極には厄介な人間がたくさんいて、実りのない議論をくり広げている。会議では情熱的でバイアスを抱えた自分自身を前面に出すべきだが、自分がこだわってきた主張に距離を置くタイミングも見極めなければならない。
この記事を書いた人
【イアン・レズリー Ian Leslie】
ノンフィクション作家。著書に、好奇心の重要性を論じ日本でも話題となった『子どもは40000回質問する』、Born Liarsがある。BBCなどのテレビやラジオにもコメンテーターとして登場するほか、ガーディアン、フィナンシャル・タイムズにも寄稿している。ロンドン在住。
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