BW_machida
2022/03/14
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2022/03/14
イアン・レズリー:作家
深く考えている人を想像してくださいと言われたら、オーギュスト・ロダンの「考える人」のようなものを思い浮かべるのではないだろうか。自分の心の奥底を探り、内省にふける孤独な人物――このような、「考える」とはひとりでする行為だという見方は、近代になってからのものだ。はるか昔の伝統では、思考と推論の本質は対話にあり、対話は集団の培った知性を手中にするための方法だった。
ここで、思想家の元祖と呼ぶべき人物に目を向けてみよう。西洋哲学の父と称されるソクラテスは、みずからの考えを書き残さなかったため、それを知るためには同時代の人々の証言に頼らなければならない。ソクラテスが文字という比較的新しい技術を信用しなかったのは、それが読者の質問に答えられないからだ。彼は話をするのが好きで、自分と意見が合わない人――少なくとも、彼とは意見が合わないと自覚している人――と話すのを好んだ。穏やかに問いを重ねることで、自分は実は自分自身の考えだと思っていたものに同意していないと気づかせるのがコツだった。
ソクラテスは、迷妄をふり払い、誤りを見極めるためには議論を交わすのが一番だと考えていた。アテネの町の広場で、町でも有数の知識人たちと頻繁に顔を突き合わせて議論した。彼が好んだ手法はまず相手に(たとえば、正義や幸福の本質について)主張をしてもらってから、そう考える理由について問いかけをすることだった――なぜそう言えるのか? こんな例外もあるのではないか? ソクラテスのねばり強い質問によって、その知識人が持っていた自信は最終的にほとんど根拠のなかったことが判明する。だがソクラテスは何も、相手に恥をかかせようとしたわけではない。人はみな、思いのほか知っていることは少ないということを明らかにしたかっただけなのだ。
シカゴ大学の哲学教授で古代ギリシアの専門家であるアグネス・カラードは、ソクラテスは思想家の祖というだけでなく、革新者でもあったと指摘する。たとえば、ひとりの人間が主張の両面を検討するよりも、ふたり以上の当事者が役割を分担するほうが、迅速・確実に真実へとたどりつける――そう提案したのは、彼が最初である。カラードはこうした手法を「認知的分業の対立的役割」と呼んだ。一方が仮説を立て、もう一方がそれを打ち破るのだ。現代の法廷で、検察官と弁護人がお互いの主張をぶつけ合いながら正義を追求するように、人々は協力して意見を戦わせることで、真実にたどりつくことができる。
だが、理論と実践は別物だ。これを実現するために、ソクラテスは今までとは異なる議論の方法を編み出さなければならなかった。すなわち、民衆に新しい社会規範を教える必要があったのだ。といっても、ソクラテスの対話相手が議論に慣れていなかったわけではない。なんといっても、そこはアテネだ。活発な民主主義を誇るこの町では、だれもが(といっても財産を持った男性にかぎられるが)、公の場で自由に意見を述べることを許された。しかし、アテネの文化は説得を重んじていたので、ほとんどの市民は意見の不一致を勝つか負けるかのゼロサム・ゲームとみなしていた。議論は実利的な目的を達成するための手段であり、政治的な目標に次ぐものとみなされていた。また、相手を出し抜く文化でもあったため、人々は卓越した弁舌家や論客となるべく競い合った。彼らが求めていたのは真実ではなく、名声だった。
そこでソクラテスは今までにないような対話を考え出さなければならなかった。カラードによれば、ソクラテスが対話のなかで本筋から離れ、自分と対話相手が取り組んでいることを当の相手に説明する場面があるという。私は、私と話をしている人物よりも自分のほうがすぐれているとは思わない、と彼は言う。問答は地位を競うためではなく、議論の質を問うためにある。相手の考えを理解することに時間をかけよう。答えを見つけられるかどうかは心配しなくてよい――肝心なのは、お互いを少しでも理解しようとすることだ。だれかと議論するのは、相手を尊敬している証なのだ。
『小ヒッピアス』(ソクラテスの弟子プラトンが綴った対話篇のひとつ)で、彼はこう語っている。
「ヒッピアス、きみが私よりも賢いことに異論はないが、だれかが話しているときに注意を払うのは私の性分なのだ。特に話し手が自分よりも賢いと思われるときにはね。相手の言わんとすることを知りたいと思うからこそ、徹底的に質問する……そうすることで、私も学ぶことができるのだよ」
またソクラテスは、自分にはアテネの市民を打ち負かそうという気はないことを懸命に伝えようとした。事実、彼には目的意識も隠れた魂胆もなかった。迷妄をふり払いたい一心で、人々を議論に巻き込んでいたのだ。当時はだれもそのような議論を経験したことがなかったので、ソクラテスは自分がやろうとしていることを何度も説明しなければならなかった。彼は大聖堂の礎を築いていたのだ――哲学や科学における自由な知的探究心という考えはすべて、探究自体が価値ある目標であり、意見の異なる人々がともに追い求めるものだという前提にもとづいている。
ソクラテスの聞き手にとって、このような議論の方法は新しく、どこか奇妙で当惑させられるものだった。アテネの知識人たちは、自分の主張をソクラテスが打ち崩していく様にさぞ不安を感じ、動揺したことだろう。面目を失ったらどうしよう? みなに悪い印象を与えてしまったらどうしよう? そこで、ソクラテスは人々を安心させたりなだめたりすることに心を砕いた。言うなれば、他者の怒りを鎮めるアンガーマネジメントを実践する必要があったのだ。カラードはプラトンの『国家』におけるこんな場面を指摘する。
私たちが話し合っているあいだ、トラシュマコスが何度となく議論に割って入ろうとしていたが、そばに座っていた者たちが最後まで聞こうと言ってそれを制止してくれていた。しかし、私の話が終わって会話が途切れると、彼はもはや黙っていられなくなった。襲いかかる前の野獣のように体を丸め、八つ裂きにせんばかりの勢いでこちらへ飛びかかってきた。
ソクラテスはアテネにおいて、神聖な牛にまとわりつくアブのように厄介な存在だった。生涯で身の危険にさらされたことは一度や二度ではなく、最終的には当局から死刑を言い渡された。だが、ソクラテスが死刑を宣告されたことは驚くにはあたらないとカラードは言う――むしろ、あれだけ長く生きたのが不思議なくらいだった。アテネ市民たちは、自分をやり込めようとか説き伏せようという魂胆を持たない者から反対意見を言われることに慣れていなかった。「それでも彼らは、ソクラテスに輝かしい生涯を許したのです」とカラード。「なぜ、市民たちは怒りを燃やさなかったのでしょうか?」。それは、ソクラテスが彼らの不安を和らげるために努力したからだと彼女は考えている。協働的な意見の対立においては、だれかが間違った側にいなければならない。ソクラテスはアテネの人々に、間違えることは悪いことではなく、むしろ感謝すべきことであると伝えようとした。たとえば『ゴルギアス』のなかで、ソクラテスはカリクレスにこう語っている。「もしきみが私に反駁しても、私は今のきみのように腹を立てることはない。むしろ、私にとって最大の恩人として記憶にとどめるだろう」
西洋哲学のほかの創始者たちも、ソクラテスの方法論を採り入れ、それをさらに発展させた。ソクラテスについては、弟子のプラトンが師の考えを対話形式でまとめたことで知られている。また、プラトンの弟子であるアリストテレスは優秀な弁論家となるための参考書を著し、修辞学という説得の技法を確立した。彼らのような思想家にとって、意見の衝突は単なる説得のための争いではなく、真実を導くための手段であり、少なくとも偽りをなくすための方法だった。さらに、古代ギリシア人は演劇という表現形式を編み出し、物語を通して衝突から真実を引き出すことに成功した。
中世ヨーロッパでは、キリスト教の学者たちがギリシア人から受け継いだ原則を採り入れ、それを「論争」という手法へと昇華させた。これは当初は修道院で、のちには初期の大学で発展した議論の方法であり、神学や科学を教え、真理を明らかにするために考案されたものだ。論争には、師弟のあいだで交わされる私的なものと、大学関係者の前で交わされる公的なものがあった。どの論争も同じような形式がとられていた。はじめに、問いかけがなされる。つづいて、問いかけに対するひとつの答えを支持する主張がなされ、それが精査される。そのあと、別の答えを支持する主張が検討される。最後に、それぞれの主張が比較検討され、どちらか一方の答えが選ばれるか、あるいは別の答えが探し求められる。論争はあくまでも競争であり、その目的はお互いを、あるいは聴衆を納得させることにあった。さらに、問題をさまざまな角度から検証することで、新たな真実が見えてくるとも考えられていた。この手法はソクラテス式の問答を形式化し、その規模を大きくしたものだった。当時を研究する歴史家は、これを「紛争の制度化」と呼んでいる。
だが制度には停滞する性質がある。16世紀、ルネッサンス期の思想家たちは、大学が実社会との関わりを持たず、不毛な知的議論にふけっているだけだと批判した。こうした手法を時代遅れのものと位置づけたのは、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトだ。彼は、学者たちによる論争が新しい真理の発見ではなく、いかにして議論に勝つかを目的とする人工的なお遊戯になってしまったと軽蔑していた。暖炉のそばにひとり座ったデカルトは、みずからの存在の確かさにもとづく新しい種類の哲学を編み出し、「我思う、ゆえに我あり」と宣言した。デカルトは言う。「真実をまた、個人の良心を重視する宗教改革も、このような内面的な思索への転換を促した。さらに、印刷機の発明によって実践的な論争が打撃を受けた。本が普及したことで、個人は小難しいことを言う教師と議論しなくても、独自に学ぶことができるようになった。18世紀、啓蒙主義の哲学者たちは、個人の理性こそ人類最高の贈り物だと主張した。イマヌエル・カントは、理性の働きを心の基本構造に求めた。それまで“判断”というものは、役人が公の場でする行為だと考えられていた。カントは初めてそれを精神的な活動、つまり物事を理解するための私的な行為ととらえたのだ。
こうして、知的探求は心のなかで行われるとみなされるようになった。古代の学者が築いた伝統から解き放たれた優秀な人々のみが、突破口を開けるとされた。ニュートンを始めとする、天才的な個人という概念がもてはやされるようになった。だが皮肉なことに、こうした個々の知性の高まりは、思考がかつてないほど社会的・論争的になっていた時代に起こったものだ。その時代、学会が創設され、哲学者たちは書簡を交換し合った。知識人たちはコーヒーハウスに集い、自説を披露し、アイデアを論じ合った。
思考は社会性を増していったが、思考をめぐる思考はより抽象的になっていった。19世紀から20世紀初頭にかけて、現在では形式論理の研究と同一視される理性の研究は、ますます数学的なものと化していった。ある主張が正確かどうかは、代数記号を用いた計算で求められるようになった。日常の言語に出る幕はなかった。ソクラテスがアテネの中心で人々と議論してから2000年が経った後、理性の研究はきわめて非社会的なものとなっていたのである。
正しい意思決定や判断とは何かということについて、私たちは依然として個人を中心に考えている。思想家やイノベーターや科学者を評価するとき、どの集団や環境から出てきたかよりも、その個性のほうを称えがちだ。心理学者は個々の知性をシステム1(無意識的な思考)とシステム2(意識的な思考)というふたつの思考モードに分けて研究している。こうした見方は脳画像検査の登場により、ますます強まった。神経学者は個々の脳画像を分析できるが、他者と交流したときに脳に何が起こるかは正確にはわかっていない(MRI装置にはひとりしか入れないのだ)。そのため、一部の例外を除いてそれは無視されている。
しかし、私たちは“頭のなか”だけで考えているわけではない。お互いに向き合うことで思考している。私たちは個人に注目するあまり、他者と意見を戦わせることによって洞察やアイデア、適切な判断へと至る可能性を過小評価している。
この記事を書いた人
【イアン・レズリー Ian Leslie】
ノンフィクション作家。著書に、好奇心の重要性を論じ日本でも話題となった『子どもは40000回質問する』、Born Liarsがある。BBCなどのテレビやラジオにもコメンテーターとして登場するほか、ガーディアン、フィナンシャル・タイムズにも寄稿している。ロンドン在住。
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