2019/07/11
長江貴士 元書店員
『講義ライブ だから仏教は面白い!』講談社
魚川祐司/著
【異性とは目も合わせないニートになれ!】
これが、仏教の創始者であるゴータマ・ブッダの主張その要旨である。
などと唐突に言われても理解できないだろう。しかし、なかなか驚愕の結論ではないだろうか。少なくとも僕は、本書を読んで驚いた。もちろんこれは、著者による現代的な要約なのだが、それにしてもこんな結論だとは。なんとなく仏教というのは、もう少し高尚なことを言っているような気がしていた。しかしこんな風に要約してもらうと、僕は個人的に、親しみやすさが出たと感じられるのだが、皆さんはどうだろうか?
さて、著者はこんな風に書いている。
【だとしたら、私たちが本当に仏教を「わかる」ためにやらなければならないことは、「異性とは目も合わせないニートになる」ことをゴータマ・ブッダが推奨していたという、文献から知られる事実を隠蔽することではなくて、そのように「非人間的」で「ヤバい」教えを言葉どおりに実践した先に、最終的に得られる価値は何であるのかということを、正面から考えてみることだと思うんです。】
【そして、ここからわかることは、ゴータマ・ブッダの「非人間的でシンプルな教え」を実践して得られた先にあるものに、何かしらの価値があるということ。あるいは少なくとも、そう考えた人たちがずっと存在し続けてきたということです】
そりゃあそうである。「異性とは目も合わせないニートになれ!」というのがヤバイ主張だというのは当然理解できるが、しかしそのヤバイ主張を受け入れ、その実践の先に何かが得られると信じるからこそ修行するのだろうし、実際に何か得られなければこれほど長い年月仏教が連綿と受け継がれることもなかっただろう。
ではその価値とは一体何なのか。まず本書から、それに該当する部分を抜き出してみよう。
【「ただ在るだけでfulfilled」というエートス。言い換えれば、ただ存在するだけ、ただ、いま・ここに在って呼吸しているだけで、それだけで「充分に満たされている」という、この世界における居住まい方】
これだけではまず理解できないだろう。今回は、ゴータマ・ブッダが一体何をどのように考え仏教を生み出し、修行によってどういう境地にたどり着けるはずだと考えていたのかを説明しようと思う。
まずブッダは、僕らが生きている世界を「条件付けされている世界」と捉えていた。これは要するに、「原因と結果がある世界」ということだ。誰かを殴れば怪我をするし、野菜を放置すれば腐る。この世界のことを「有為」と呼ぶが、一方仏教が目指すのは「無為」である。
「無為」とは「有為」の逆なのだから、つまり条件付されていない世界のことだ。そしてそれは「涅槃」と呼ばれている。つまり仏教を実践することで、「有為」から脱し、「涅槃」へ至ることが出来る、ということだ。
さてここで、仏教の重要概念である「苦(ドゥッカ)」の説明をしよう。
僕らは今「有為」の世界にいて、そこで欲望を充足する行為に明け暮れている。美味いものが食べたい!海外旅行をしたい!みたいなことだ。しかし、どれだけ欲望を追求してみても、決して満足出来ることはない。「ドゥッカ」というのはその、「欲望充足の行為には際限がない」「永遠に満足したという状態には辿りつけない」という状態を指す。
インド圏においては、この事実は絶望的である。何故ならインド圏では「輪廻」、つまり「生まれ変わり(のようなもの)」が実際にあると信じられているからだ。一回きりの人生で「ドゥッカ」に囚われているだけならまだ我慢出来るかもしれない。しかし、生まれ変わっても生まれ変わっても、結局「ドゥッカ」から抜け出せないとしたら、絶望しかないだろう。
だから仏教では、その無限ループから抜け出すために「解脱」を目指そうとするのだ。
では、どうしたら「ドゥッカ」から逃れられるのか。「ドゥッカ」は欲望を追求することから生まれてしまう。仏教ではその欲望のことを「渇愛」と呼んでいる。つまり、「渇愛」がなくなれば「ドゥッカ」もなくなるはずだ。そうすれば、「有為」から脱し「涅槃」に行き着くことが出来る。
ではどうやって「渇愛」を無くせばいいのか?
その疑問に答える前に、まず「渇愛」についてもう少し深めよう。本書では「渇愛」については、「おっぱい問題」として頻繁に登場する。
「おっぱい」というのは、欲望のない状態で見ることが出来ればそれは「ただの脂肪の塊」である。しかし僕らは「おっぱい」をそういうものとして見ない。どうしても「おっぱい」を見ると、ムラムラしたりしてしまう。これは「おっぱい」を、「ただの脂肪の塊」ではなく、「おっぱい」という観念で捉えているからだ。このように「おっぱい」を欲望含みで捉えてしまう状態のことを「渇愛」と呼ぶ。
ではどうすれば「渇愛」を無くせるのか?つまりこれが仏教の実践ということになるが、「修行によって認知を変える」ことで「渇愛」を無くそうとするのだ。どういうことか?
例えばテレビなどで、先住民族の生活に密着するような番組がある。彼らは大抵男女とも上半身は裸であることが多い。つまり女性も常に「おっぱい」が出ている状態だ。確かめたことはないが、そういう先住民族の男たちは、「おっぱい」を見てもムラムラしないのだろう(するとしたら、日常生活が大変だ)。これは、僕らと先住民族とでは「おっぱい」の見方が違う、ということである。つまり、何らかの方法で「認知」を変えれば、「おっぱい」は「ただの脂肪の塊」にしか見えず、ムラムラすることもない、ということなのだ。
そしてこれは、当然だが「おっぱい」だけに限らない。「有為」の世界に生きる僕らは、世の中のあらゆるものをそのままの形で見ず、欲望を伴った認知で捉えてしまっている。だからこそブッダは、「世界」=「ドゥッカ」であると考えるのだ。欲望を伴った認知から逃れられなければ、永遠に不満足から抜け出せない。だからこそ「世界」そのものを壊し、強制的に欲望を伴った認知を転換させるしかない。
そしてそのために修業をする必要がある。
頭の中でどれだけ「おっぱいはただの脂肪の塊だ」と言い聞かせてみても、いざ目の前に「おっぱい」が現れれば、「うぉ!おっぱい!」となってしまう。それでは何の意味もない。だからこそ仏教では、知識体系だけではなく、修行によって認知を変えることで「解脱」を目指すしかない、と考えるのだ。
もちろん本書では他にも様々な説明がなされるが、仏教がどのような考えで成り立っているのかという部分についてはある程度本書の説明を要約できたのではないかと思う。今まで宗教というもの全般に関心が持てないでいたが、「修行によって認知を変えること」が仏教の教えの真髄なのだとすれば、非常に理にかなった主張だと感じる。著者も書いている通り、決して本書だけで仏教のすべてが分かるというものではないが、ゴータマ・ブッダの主張の真髄は理解できるのではないかと思う。
『講義ライブ だから仏教は面白い!』講談社
魚川祐司/著