2019/07/12
三砂慶明 「読書室」主宰
『肉食の思想』中公新書
鯖田豊之/著
食べられるのに食べないのはナゼ?
人間は、生きるために食べなければなりません。
食べ続けなければ生きてはいけません。
この条件から自由でいられる人間はいません。
とすれば、食べるというのは人間の生の究極の条件の一つだといえるのではないでしょうか?
旧約聖書『創世記』に記された最初の人間、アダムとイブは、食べることによってエデンの園を追放され、食べた結果、子孫ともども原罪を抱えることになりました。
よく知られているように、牛や豚はある地域においては、タブー視されています。
食べられるのに食べない。
この一見不自然な行為は、なぜ生じるのでしょうか?
人間と動物とを隔てる食とタブー。
その背景にある宗教と文化。
そもそも「食べる」とは一体どういうことなのか?
この人間を条件づける定義の一つを、ありふれた日常、食卓から考える本を紹介します。
日本の肉食は「ままごと」?
鯖田豊之氏の名著『肉食の思想』(中公新書)は、1966年に書かれた半世紀以上も前の本ですが、古びることなく、書店の店頭でも今尚売れ続けています。本書は、日本とヨーロッパを比較し、動物性食品の依存率や耕地面積の国際比較を、国際統計要覧などを参照しながら統計的に分析し、大きくマクロ的に抽象化した「ヨーロッパ精神」の起源を「肉食」と「パン」から抽出する刺激的な一冊です。
どの棚に並べようかと中身を見ていたら、冒頭にあった竹山道雄の引用に引き込まれて、一気に最後まで読まされました。
竹山道雄は、ニーチェやゲーテの翻訳者であり、なによりも有名な『ビルマの竪琴』でよく知られていますが、鯖田がこの本で引用した『ヨーロッパの旅』正・続(新潮社・絶版)については知りませんでした。
学生時代にフランスに留学していた竹山が、戦後ヨーロッパを再訪したときのこと。旧知のフランス人が竹山のあまりのやせた姿に驚いて、太らせてやろうと半強制的にある家庭にひきとらせます。
「毎日大量の肉を食べ美酒を啜らなくてはならないのがすこし辛かった」という羨ましい状況ですが、そこで出される料理は想像していたものとは違いました。
「こういう家庭料理は、日本のレストランのフランス料理とは大分ちがう。あるときは頸で切った雄雛の頭がそのまま出た。まるで首実検のようだった。トサカがゼラチンで滋養があるのだそうである。あるときは犢(こうし)の面皮が出た。青黒くすきとおった皮に、目があいて鼻がついていた。これもゼラチン。兎の丸煮はしきりに出たが、頭が崩れて細い尖った歯がむきだしていた。いくつもの管がついて人工衛星のような形をした羊の心臓もおいしかったし、原子雲のような脳髄もわるくなかった――」(『続ヨーロッパの旅』竹山道雄・新潮社)
出される料理を次々に平らげ、限界まで太った竹山も、あるとき大勢の会食で、血だらけの豚の頭がでたときは閉口します。
どうも残酷だと伝えると、パリのお嬢さんは、
「あら、だって、牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだわ」と屈託なく笑ったといいます。
本書の著者、鯖田氏は竹山のフランスでの回想を引いて、「日本人の肉食はままごとのようなものである」と述べています。そして、日本とヨーロッパの食生活を比較分析した結果、一つの仮説を展開します。それはヨーロッパの伝統思想、そして、それに連なる近代思想も、結局のところは、食生活から育まれているのだというのです。
日本とちがってヨーロッパでは、主食、副食の区別がなく、歴史的に見ても何が主食なのかがはっきりしないと著者はいいます。そして、あくまで生き抜くために高い肉食率を維持せざるを得なかったヨーロッパでは、人間と動物の断絶を極端にまで肯定するためにキリスト教の思想が必要だったと分析します。
『創世記』の、
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう」
という言葉は単なる物語ではなく、パリのお嬢さんが屈託なく笑い「牛や豚は人間に食べられるために神様がつくってくださったのだ」といいきれるほどに、ヨーロッパの血肉に溶け込んでいったのだといいます。
土地は先祖代々のものではなく、みんなで育てるもの
さらに、ヨーロッパの社会意識は「パン食」から産まれたのだと、驚くべき試論を展開します。
ヨーロッパの麦作は、日本の米作とちがって、もともと耕地が不安定でした。かいつまんでいうと、ある年には麦畑だった場所が、つぎの年には休耕地になって家畜がうろつくのです。
毎年連作し、耕作をかかさずにいなければ荒廃してしまう日本の田畑は、「先祖伝来の田畑」であるのに対し、もともと耕地の不安定なヨーロッパでは、そもそも「先祖伝来の田畑」といった観念はなく、すぐ近くに居住し、たえず接触している村の仲間がいなければ耕作することができません。
つまり、この肉食を補完するためにせざるをえなかった穀物栽培こそが、結局のところヨーロッパの思想的伝統の中で、大きな役割を果たしているのだと著者はいいます。
もし、毎年穀物生産を続けられることを誰かに感謝しなければならないとすれば、日本とヨーロッパでは対照的だと述べています。
「死んだ祖先」より「生きている村の仲間」。
「過去」よりも「現在」。
ヨーロッパ思想の背景が、穀物栽培の適地ではなかったヨーロッパで、なんとか穀物を口にできるように努力した結果なのだという指摘には感動しました。
本書で展開される「ヨーロッパ精神」という分類は大きすぎる気もしますが、それぞれの国の料理が、実はその国の思想を体現しているということは、読んでいて実感できました。
私たちが何を食べているのか、が私たちの肉体をつくっているだけでなく、考え方をも育んでいる。
この本を読むと、文字通り食卓から世界が見えます。
『肉食の思想』中公新書
鯖田豊之/著