akane
2019/02/14
akane
2019/02/14
伝統と名の付くジャンル全般に言えるのだが、決まった型を何度も繰り返して学ぶ鍛錬が必要なんだろうなぁ、と何となく考えている。
私はこの鍛錬が好きではない。何度も繰り返し練習することが好きだという人は少ない。退屈だし面倒臭いし、小学校の頃にノート一面にびっしりと書いた「表情」という漢字を思い出す。間違えたからやらされた宿題だ。
正解があるものに少しでも近づけるという作業が、うっとうしく感じるのだ。それが芸であり落語家というものだと定義付けされるなら、私は落語家ではないだろう。
私は古典落語を型通りにやらない。いや、型通りの古典落語は私にはできないのだ。本気で人生をかけてやればできるかもしれないが、さほど努力しなくても、私よりできる落語家は山のようにいる。
もう子供じゃないんだから、苦手だと感じているものを無理やり矯正しなくてもいいだろう。その(俗に言う)落語という土俵で勝負しても、私に勝ち目がないのは明白だ。
だから、勝てるところで戦えばいい。私にしかできないことをやってみて、お客さんが来なければそれまでだ。ライバルの多い場所で勝てないと感じるならば、自分が勝てるジャンルを探せばいい。
これだけ娯楽が細分化された時代なのだから、そこを活かさないのはもったいない。
私は落語界という世界の隅っこで、さらに隙間を探して生き長らえているのだ!
その結果、都心部ではマニアックと言われながらも仕事として成り立っているし、地方では企画力を活かしたやり方で、こちらも仕事として成り立たせている。
古典落語をベースにはするが、もう原形をとどめないほど壊す。原作(古典落語)を知らないお客さんには、パロディーであることすらわからないようなやり方をする、前後にオリジナルエピソードを追加する、などなど、やりたい放題だ。
師匠志らくには、落語が好き過ぎて、こじれたお客さんしか集まらないと言われる。
一方地方では、落語の持つ古典芸能のイメージを活かして、これまで大衆演劇などをやっていたところに、落語をより手軽なコンテンツとして売り込む。
過疎化や移住問題、農業などと落語を組み合わせた提案をしてみるなど、私の強みは組み合わせだ。
これはネタ作りでも、仕事を作るにしても重要になってくる。
最近で言えばネットだ。プログラムにしても、ネットワークにしても、ハードウェアにしても、どのジャンルにも専門家はいる。私は専門家と名乗れる程の知識も経験もない。しかし、ここに「落語家で」という肩書きが付くと、私にしかできないジャンルが誕生するのだ。
ナンバーワンを目指さなくても、オンリーワンを追求すればナンバーワンになれる。
落語と何を組み合わせれば面白くなるのか。私が生き残れた一番の要因は、この組み合わせの妙なのである。
ただ、どのジャンルでも、ニワカファンというのはまれる傾向がある。
新規のお客さんなのだから優しく受け入れればいいんじゃないか? とも思うが、一方で詳しく知りもしないのに、通ぶって語られたくないという心理もわかる。
だからこそ新しいジャンルを手に入れようとした場合、それ相応の知識や実力が伴う必要がある。
この部分は手を抜いてはいけない。安易に首を突っ込むとニワカファンというレッテルを貼られて終わってしまう。
何よりも大事なのは、好きかどうか、である。流行っているかどうか、今後流行るかどうか、そんなモノサシは不要だ。
好きであれば、そして好きであることが伝われば、後は時間をかけさえすれば受け入れてもらえるのがマイナーな業界の良いところだ。
競争原理が働かない市場は、結果でなく、努力を評価してくれる傾向が強いのだ。だから、一般人が引く程の時間をかけて没頭すればいい。ゲームにしても、仮想通貨にしても、「キモイ」と言われるところまでのめり込めたら合格である。こうしてマイナスの意味でのオタクになることが近道なのだ。
ここに、落語家という肩書きを混ぜ合わせると、新たなジャンルの完成になる。そう、このジャンルは私しか獲得できないものなので(今のところね)、当然トップを取れるのだ。
こうやって、あらゆることを組み合わせていく。これが私のネタ作りと言えるだろう。
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