2019/09/11
長江貴士 元書店員
『寄生虫なき病』文藝春秋
モイセズ ベラスケス=マノフ/著 赤根洋子/翻訳
今でこそ「腸内フローラ」という言葉はよく耳にするようになったが、本書の出版時点ではどうだっただろうか?恐らくまだそこまで浸透はしていなかったのではないだろうか。現在でも、「腸内フローラ」という名前は聞いたことがあっても、それが何にどう影響を及ぼすのか、あまりきちんと理解していない人もいるのではないかと思う。
とはいえ、科学的にもまだまだ検証途上の話のようで、本書でも、様々な実験データや症例などが紹介されるが、まだまだ確実な結論として提示出来るレベルのものではないようだ。しかしそれでも、本書が出版され、高く評価されている背景には、自己免疫疾患やアレルギー疾患が「エピデミック(流行病)」と言っていいほど、特に先進国で広まっているからだ。
日本でも花粉症に悩む人は多いだろうが、これもアレルギー疾患の一種である。花粉症は、最初登場した際「先進国病」と呼ばれていたという。何故か、先進国でばかり患者が急増したからだ。それは一体何故なのか?
本書を読めば、その辺りの事情が理解できる。
本書はいわゆる「腸内フローラ(腸内細菌叢)」についての話だが、これがどのような話の広がりを見せるのかを、本書で取り上げられているエピソードから抜き出して書いてみよう。
【なぜ自己免疫性疾患やアトピーなどの病気は、発展途上国ではほとんど見られず、先進国でここ最近急増しているのか?】
【なぜ兄弟がいる子は、長男よりも喘息やアトピーになりにくいのか?】
【花粉症にかかる人間はなぜ、先進国の富裕層の人間からだったのか?】
【これまでもアメリカ人はコーラや肉を摂取してきたのに、肥満が最近になって問題になってきたのは何故か?】
【人類がアフリカで誕生して以来、結核菌は常に人類と共に存在していたのに、何故19世紀に突如結核が大流行したのか?】
【世界の人口の1/3の人間が未だに寄生虫に感染しているのに、症状が出ることはほとんどない。寄生虫は一体人間の体内で何をしているのか?】
【抗生物質を使いはじめるようになってから免疫関連疾患が増大したのは何故か?】
他にも自閉症と関係があるともされており、腸内の細菌叢がいかに人体に多大なる影響を与えるのかということが見てとれる。
しかし、じゃあ何故腸内細菌叢に注目が集まったのか。それにはこんな理由がある。
【バックがこのように明確に示して見せた関係―感染症が減少するにつれて、免疫関連疾患が増加する―は、同時期の国別・地域別の比較でも歴然としている】
かつて人類は、感染症に悩まされていた。これは、寄生虫や微生物による感染によって引き起こされる。19世紀のロンドンは、【常に、自らの排泄物に浸かっていた】という状態だったようだし、「ベルサイユのばら」で描かれている当時のパリも似たような状態だったと何か別の本で読んだ記憶がある。下水道がしっかりと整備されておらず、排泄物が堆積し、それにより感染症が引き起こされてしまうのだ。1817年に世界中を震撼させたコレラも感染症であり、これをきっかけとして世界各国は衛生改革に乗り出すことになった。公衆衛生を改善し、飲水を綺麗にし、寄生虫の撲滅に奔走し、そうやって人類は、人類史上かつてないほど「綺麗な」環境で生活できるようになったのだ。
しかし衛生改革が進めば進むほど、今度は何故か免疫関連疾患に人類は悩まされることになったのだ。
このことは、先住民の調査からも明らかになっていく。
【文明社会との接触がないアマゾン先住民にアレルギー疾患や他の現代病が見られないことは、他の研究者らによる調査からも明らかになっている。アマゾン先住民にはこうした病気に対する免疫が遺伝的に備わっているのだろうか。その可能性は否定できないが、おそらくそうではないだろう。これと同様の現象は、ヨーロッパやアフリカやアジアでも繰り返し観察されてきた。それは、不潔な環境で生活している人たちのほうがアレルギー疾患や自己免疫性疾患のリスクが低いという現象である。】
このようにして人々は、「不潔な環境下では免疫関連疾患に罹りにくい」という事実を理解するようになっていくのだ。そしてマスコミは、「現代の生活は清潔すぎてかえって健康を損なっている」として、この現象を「衛生仮説」と名づけた。
では何故、清潔さと免疫関連疾患が関係するのか。それは本書ではこう説明されている。
【つまり、チマネ族は微生物や寄生虫がうようよいる環境で暮らしている。だからどうなんだって?数々の証拠がこうした環境が自己免疫性疾患やアレルギー疾患を防ぐことを示唆している。理由は簡単である。免疫系は本来こうした環境に立ち向かうために進化してきたからである。そして、本来立ち向かうはずだった、刺激に満ちた環境に出会えないと、免疫系は混乱してしまうのである】
免疫関連疾患が現れ始めた当初は、何か原因となる物質が存在するはずだ、と考えられていた。しかし研究を進めていくにつれ、そうではないということが分かってきた。何か新しい物質が免疫系に入り込むから引き起こされるのではない。逆に、免疫系から重要な「何か」が失われるから免疫関連疾患が引き起こされるのだ、と。
そしてその「何か」こそが、寄生虫や微生物ではないかと考えられているのだ。
さらにこのように考えている研究者もいる。
【腸内細菌叢にはかなりの可塑性がある。食生活や微生物への暴露、個人の体質や年齢によって、腸内細菌叢は変化する。この可塑性こそ、「そもそもいったいなぜ腸内細菌叢が存在するのか」という問いに対する答えの一つかもしれない。微生物の生態系は、固定的なヒトのゲノムよりも素早く進化・変化することができる。この可変性のおかげで、我々は、自分のゲノムだけに依存するよりも柔軟性(たとえば、より広い範囲のものを食べて消化することができるようになるための)を獲得することができる】
なるほど、これはシステムとして非常に理にかなったものだと感じる。生物は常に、外的な環境変化によって、今まで食べられていたものが食べられなくなったり、新たに食べなければならない食物が出てきたりする。そういう時、腸内細菌なしでその変化に適応するとすれば、遺伝子を変化させるしかない。しかし腸内細菌にその役割を担わせれば、遺伝子の変化よりも早く人体構造を変えることが出来る。なるほど、この説明が正しいとすれば、よく出来たシステムである。
だからこそ、意図的に寄生虫に感染して免疫関連疾患を治そう、というアンダーグラウンドな治療法が流行ることになる。実際アメリカでは、かつて猛威を振るい、現在では根絶されている「アメリカ鉤虫」をわざわざ体内に入れ感染しようとする者がいる。実際にその治療によって、重篤な免疫関連疾患が寛解にまで緩和したという実例も存在するという。
さて、基本的には本書はアメリカの話だ。じゃあ日本はどうなんだ?と言うと、このような気になる文章がある。
【注目すべきは、日本や韓国で寄生虫駆除がおこなわれるようになったのはアメリカよりも数十年遅いということである(日本では第二次世界大戦後、韓国では朝鮮戦争後)。】
つまり、今アメリカで起こっているようなことが、数十年後の日本で起こるかもしれない、ということだ。油断してはいけない。
ホモ・サピエンスの歴史は20万年近くあるが、その歴史上初めて、腸内から細菌がいなくなるという異常事態が起こっているのだ。日本でもCMなどを通じて、「清潔な生活が出来るツール」が様々に紹介されるが、本当にそれらを使った生活を選択することが正解なのか、本書を読んで考え直してみてもいいかもしれない。
『寄生虫なき病』文藝春秋
モイセズ ベラスケス=マノフ/著 赤根洋子/翻訳