羞恥心の感覚を共有する同属人が友人や恋人になる『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』

清水貴一 バーテンダー・脚本家

『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』文藝春秋 
酒井順子/著

 

わたしは、変なところで恥ずかしがり屋である。たとえば、人前で全裸になるのはなんら恥ずかしくないのだが、不意に社会の窓が全開ですよと指摘されたりすると耳がじーんと熱くなる。

 

 

そんなわたしにとっては、待ってましたといわんばかりの胸キュンテーマが「恥の感覚」だ。時には爆笑を誘い、時には熟考させられたりと、酒井順子恐るべし! と言いたいところである。本書は時代を選ばないスタンダードな恥、ハゲが露呈する恥や、下ネタを聞かされる恥、SEX羞恥などを考えてみたり、女性あるあるの電車の中で化粧する恥、男と女の使用言語差の恥、SNS到来からくる、新旧においての恥感覚の変革の謎に迫ってみたり、更には没後に予想される恥ずかしいであろうエピソードなどが満載の、たまらん一冊となっている。

 

日本人は、欧米よりも内と外をしっかりと線引きをして生きていく習性があるようで、家の中でなにをしていても平気なわけであるが、この「内と外」のギャップこそが、日本人特有の恥の感覚の鋭敏さを猛烈に増幅させたのだと思わされた。

 

SNSが登場して久しいが、最近は恥ずかしい投稿は減少傾向にあるようだ。

 

自慢投稿やイデオロギー誇示をする人々はまだいるようだが、これは恥ずかしい人というよりは、変わった人として判別される傾向にある。みんな、SNSの使い方を熟知したのだ。たしかに10年前の自分の投稿を見ると恥ずかしくなって削除しようかと迷ったことがあった。自分の若さや愚かさを恥じるという感覚は悪くはないのだろうが、これもこれで自分史なのだから黒かろうがマヌケであろうが、もう仕方のないことだと諦めている。とはいえ、SNS時代では、「恥はかき捨て」ではなく、刻印(デジタルタトゥー)として世界に拡散され、永久保存されることもあるのだと改めて恐ろしくなる。

 

特に興味深かったのは、没後、形見分けで他人が部屋に入る折、よからぬ趣味が暴かれる恥やパソコンのエロ動画の履歴を見られてしまう恥だ。一理ある!

 

わたしもきっとそうなるにちがいない。人は必ず誰にも言えない性癖がある、というのがわたしの持論だからだ。だがこれは、かなり自意識過剰な恥で、生きている時の想像力の豊かさが原因となっているが、当然ながら没後は死人にくちなし、言い訳もできないかわりに、それを知る由もないのである。

 

対策はどう打てばいいのだろう。それは、逆に親族や知人の腰が粉砕するほどのエログロ画像を仕掛けておいたり、謎のファイルを作っておいて、それをクリックするとファンキーな装いでがっつり語るビデオレターを用意しておくというのはどうか。死んでからも恥をかくというなら爆笑を狙った方がいいに決まっている。せっかくの鋭敏な自意識は生きているうちに使わないと損で、木は森へ隠せ、ではないが、恥は大恥にまぜろ!作戦だ。これで死後への心配は緩和するに違いない。思春期の頃は、恥ずかしいことで溢れていたのに、死に近づくにつれて感覚が鈍くなり、何事にも動じなくなるのではなかろうかと思う一方で、やはり恥から本当に自由になることはなかなかむずかしいことではないかと著者はいう。わたしも羞恥心のない自分を想像してみたが、ゾッとした。

 

きっと変人として判別されレッテルを貼られ、家族や友人、仕事関係の人たちを含めて誰も近寄ろうとはしないだろう。

 

つまり羞恥心とは、人間にはなくてはならない感覚であって、この感覚の近しい価値観を共有する同属人が、友人や恋人になれるのだと確信したのである。

 

まさに恥は人なり……恥がヒトを人たらしめていると言っても過言ではないだろう。ここまで恥について考えたのは初めてのことだったが、なんだ、恥ずかしがり屋でいいじゃないかと思う一方で、これに乗じて羞恥心が解放されてしまうと、またいっそう自分が面倒くさい人間になってしまうのではないかとも危惧している。

 


『センス・オブ・シェイム 恥の感覚』文藝春秋
酒井順子/著

この記事を書いた人

清水貴一

-shimizu-takakazu-

バーテンダー・脚本家

1972年生まれ、石川県金沢市出身。  1999年、東京・中目黒でbar「パープル」をオープン、現在もバーテンダーとして働いている。脚本では、ショートアニメ「フルーティー侍」「マルタの冒険」などがある。

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