2020/06/22
樋口麻衣 勝木書店本店
『戻り川心中』光文社
連城三紀彦/著
今、書店の店頭では『十二人の手紙』(井上ひさし著、中公文庫)や『悪女について』(有吉佐和子著、新潮文庫)といった、昭和のミステリーが注目されています。時を経ても決して色褪せることなく、新たな読者に新鮮な驚きを与えるこれらの作品。そんな作品の一つとして、『戻り川心中』(連城三紀彦著、光文社文庫)をご紹介いたします。
『戻り川心中』というタイトルと表紙を見て、ちょっと地味だし、なんだか難しそうと思う人も多いと思います。ミステリーと言われなければ、ともすると時代小説と勘違いしてしまうような趣です。しかし、実際に読んでみると、こんなに美しいミステリーを私は他に知らないと思うほどの作品でした。文章の美しさと、それによって描かれる世界のあまりの美しさに思わずうっとりとしてしまい、知らないはずの時代の中に入り込んでしまうような感覚になり、読み耽ってしまいました。
『戻り川心中』には五つの短編が収録されています。
日本推理作家協会賞受賞の表題作「戻り川心中」。大正期を代表する天才歌人・苑田岳葉は二度、心中未遂事件を起こし、二人の女を死に追いやった。岳葉はこの二度に渡る心中未遂事件を題材に、「情歌」と「蘇生」という連作歌集を生み出した。自らは死にきれず、その情死行を歌に遺して自害した岳葉。彼は女たちに何を求め、道連れとなった女たちは彼に何を求めたのか。彼が本当に愛したものとは。彼が遺した歌に秘められた真実とは。鍵を握るのは花菖蒲。一本の茎に二つの蕾をつけるものも多く、最初の花が枯れると次の蕾がひらくという花菖蒲は、岳葉に何を想わせたのか。
この表題作のほか、「藤の香」「桔梗の宿」「桐の柩」「白蓮の寺」という作品が収録されています。描かれている時代は明治から昭和初期、いずれの短編も花が重要な鍵を握っていて、ミステリーと恋愛小説が融合した作品となっています。
目で文字を追っている、ただそれだけなのに、音や声が聞こえ、温度を感じ、香りを感じ、影や光を感じ、男女の心の機微を感じ、そして、大きな驚きを感じる。驚きに心震えるミステリーも感動に心震えるミステリーもたくさん読んできましたが、五感のすべてが震えながら反応しあうような美しいミステリーは、私は『戻り川心中』だけだと思うのです。ひっそりと、しかし確かに、花が主役として描かれていて、その花の姿が男女の愛、トリックに重なる。そんな世界を、「文学的」と評される連城氏の美しい文章と表現が包み込み、他にはない作品が作り上げられています。
花の美しさと花の命、人の想いと人の命は、狂おしいほど美しく激しく切なく、儚い。
一気読みしてくださいとは言いません。ゆっくりとじっくりと、このたおやかな世界に浸ってください。
『戻り川心中』光文社
連城三紀彦/著