2020/08/20
馬場紀衣 文筆家・ライター
『魔法がとけたあとも』双葉社
奥田亜希子/著
大人と呼べる年齢になってから、奥田亜希子さんの『魔法がとけたあとも』を読めたことは私にとって幸運だった。といっても、大人ならではの苦労とか人生を指南する内容を取り上げた小説ではない。それぞれ立場の違う男女が登場するこの短編集は、妊娠中だったり、ホクロがコンプレックスだったり、自分の頭に白髪を見つけたりして、各々事情は異なるが、いずれも個人の身体の変化を描いた物語だ。誰もが経験し、葛藤している不自由な身体に向けられた著者の眼差しは優しい。
目立つホクロが気になって人と上手く関わることができずにいる会社員が主人公の「君の線、僕の点」。失意のなか一人旅で泊まった高級旅館の大浴場で倒れてしまった女性の思いを語る「花入りのアンバー」。反抗的な態度をとる中学生の息子の顔に髭を見つけてしまったシングルマザーの「彼方のアイドル」。二人目の子どもができないことで妻との溝が広がっていく夫の心情を描いた「キャッチボール・アット・リバーサイド」。周囲から「正しい妊婦」であることを求められ、疲弊した妊婦が、まるで自分が単なる赤ん坊の容れものになったみたいな感覚を味わう「理想のいれもの」。
こうして並べてみると、身体の変化に不安を感じていたり、あるいは心が身体の変化をすんなり受け入れられないという設定が多い。妊娠や子育てを描いた作品も目立つ。主人公たちはそれを受け入れざるを得ず、しかし慌ただしい日常に追いかけられる様子が、まさに私のまわりの世代とリンクして、のめりこむようにして読んでしまった。
加齢、努力の報われない苦悩、コンプレックス、周囲の期待……。登場人物たちが抱えている身体の悩みは、ひとつひとつを見れば些細なものかもしれない。はたから見れば誰もが経験するような、小さな悩みに思える。しかし、じっと目をこらしてみると、澱のようなわだかまりが沈んでいるのが見えてくる。
それは私たちの肉体が死へむかって朽ちていく運命にあることを示唆しているのかもしれないし、髪や皮膚といったものが次々に入れ替わり、新しい生命を連れてくることを予言しているのかもしれない。辛い、とか苦しいとかいう気持ちが膨れ上がってしまうと、心にばかり気を取られて、身体がおざなりになってしまうことがある。著者はいずれも見えにくくなくなった身体に耳を傾け、思いを馳せる。
著者の描く身体との向き合い方は、切実であると同時に逃れようがなく、労りすら感じさせる。面白いのは、一つの変化をきっかけに周囲との関係がひっくり変えるのかと思えば、そうでもないところ。たくさん苦しんだ末に新しい自分を見つけ、自分の身体を思い出したところで、ささやかな希望を残して物語は幕を閉じる。けれどそれは、人生と同じだろう。
『魔法がとけたあとも』双葉社
奥田亜希子/著