教育を突き詰めると子どもたちはルンバのようになってしまうのか?

塚越健司 学習院大学・拓殖大学非常勤講師

『「生存競争(サバイバル)」教育への反抗』 集英社
神代健彦/著

 

 

社会への「適応」を迫るコンピテンシー

 

生徒全員がイノベーティブな「小さな企業家」となることを目指す教育。その考えに賛成する人もいると思われるが、本当にそのようなことが可能なのか、そしてそれは正しいのかと、疑問に思う読者もいるだろう。

 

昨今はメリトクラシーやL型・G型など、教育に関する言葉を目にする機会は多い。「コンピテンシー」もその一つに数えられるが、上記の点を踏まえれば、覚えておかなければならない言葉であることを、本書を読めば強く感じるだろう。

 

コンピテンシーを日本語に直訳すれば「能力」となるが、この言葉には「人格の深部におよぶ全体的な能力」まで含まれているという。コンピテンシーとは、学習や仕事の能力に限定されず、生き方全体を含んだ能力として規定されているが故に、日本語の「能力」には還元できない意味を持っている。そして著者が述べるように、

 

「教育のコンピテンシー化によって、学校で獲得される能力が社会で生きて働くために本当に必要な能力と一致するなら、学校教育は、「個人の人生の成功」と「うまく機能する社会」を約束する存在」(p.100.)

 

となるだろう。

 

上記の限りにおいて、コンピテンシーは「歓迎すべき」であり、実際に必要とされるようにも思われる。しかし、著者はコンピテンシーの必要を認めるものの、同時に目下のコンピテンシーに対する疑義を呈する。例えば著者は

 

「コンピテンシーは、既存の教育/学習を、個人と社会の将来の理想像から逆算して、「役に立つ」能力、「役に立つ」教育、「役に立つ」学習へと整理・スリム化する。これを教育のコンピテンシー化と呼ぼう」(p.97.)

 

と述べている。役に立つことは必要であるが、コンピテンシー教育を突き詰めれば、既存の学校や社会に子どもを「適応」させること、つまり社会に都合のよい人間を形成するだけになっていないかと言うのだ。

 

流動化する社会の中で、社会の規範やルールも変化が激しい。その意味で、米国西海岸のIT企業家が語るように、創造的(クリエイティブ)であること、つまり変化を自ら生じさせる力は重要だろう。しかし、そうであるからこそ、時に規範から逸脱することを恐れず、新たな価値を創造する力が社会には要請されるはずだ。適応から外れる能力を、コンピテンシー教育はどのように涵養できるのか。

 

さらにいえば、昨今流行している探究型学習のような、教科書を読ませるような教え込み教育ではない、フィールドワークや実験を通して子どもの主体性の確立を求める学習であっても、抽象的な目標設定が、むしろ制度の形骸化を進める(この手順とこの手順を組み合わせれば、●●を学習したことになる)ことにもなりかねない。子どもの自発性を高めるための教育は、しかし抽象的な理念の中で、形骸化してしまっていないだろうか。

 

子どもを世界と出会わせる

 

そこで教育学、特に教育史が専門の著者は、アリストテレスやルソーから別の価値を引き出そうとする。キーワードは「子どもを世界と出会わせる」ことだ(そのロジックはぜひ本書から直接学んでほしい)。他にも著者は、オランダ生まれの教育哲学者であるガート・ビースタの議論を俎上に載せ、掃除ロボットの「ルンバ」に注目する。ルンバは掃除すべき領域を自分で学習するが、そこに「適応」すると、新たな領域を開拓できなくなってしまう。人間もまた適応するために学習するが、コンピテンシー教育が学校や社会への適応を求めるのであれば、結局のところ子どもが自律する領域は、ルンバと同様の、狭い範囲に限定されてしまうのではないか。だからこそ、適応を超えるための批判的視座や別の視点を持つ必要があり、教育はルンバ的な適応を超えるために提供されるものでなければならない。

 

つまり、教えるということは、「ロボット掃除機」を「主体」であることへと導くことなのであり、その方法論として筆者は「子どもを世界と出会わせる」ことを念頭に置いている。それは「未知」のものであったり、思考の「中断」を迫るような、自らの価値の再考を促す教育である。もちろん、そのような教育の導入は困難であり、それこそ抽象的な命題になってしまっているようにも評者には思われる。とはいえ、コンピテンシー型の教育とは、上記のような未知や中断を含めた教育であるべきなのだが、現実は社会への「適応」を子どもに求めるようなものへと形骸化してしまっているのだ。

 

著者は根本的な解決が困難であることを自覚した上で、しかしあり得べきコンピテンシー教育によって生じる私たちの、生産ではなく消費に着目している。賢い消費者、より良いものを追求する消費者を中心とした市場経済システムを構想することで、理念的な教育を超えて、実践的な教育の可能性を探求する試みは、時にスリリングな読書体験を与えている。

 

本書を読んだ評者の関心としては、コンピテンシー教育によって、「適応」を超える教育が本当に展開できないのかが気になる。OECDのコンピテンシーに関する概念にも、社会を批判的に判定し、アップデートするといった視点を有しているからだ。であれば、コンピテンシー教育の中に批判的視座を埋め込むことで、軌道修正は可能なのだろうか。そしてまた、現場の教員は実践的な問題として、コンピテンシー教育にどのように向き合っているのだろうか。コロナ禍にあってますます困難を伴う教育現場の教員の方々にこそ、本書が読まれることが望まれる。

 

『「生存競争(サバイバル)」教育への反抗』 集英社
神代健彦/著

この記事を書いた人

塚越健司

-tsukagoshi-kenji-

学習院大学・拓殖大学非常勤講師

1984年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位修得退学。拓殖大学非常勤講師、学習院大学非常勤講師。専門は情報社会学、社会哲学。ミシェル・フーコー研究のほか、インターネットの技術や権力構造などを研究。単著に『ニュースで読み解くネット社会の歩き方』(出版芸術社)、『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)。翻訳(共訳)に堀内進之介監訳『アメコミヒーローの倫理学』(パルコ出版)。その他共著多数。その他メディア出演、記事寄稿等多数。


・テレビ朝日「大下容子 ワイド!スクランブル」火曜コメンテーター。
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/cast/
・ウェブ連載「サイバー空間の権力論」
http://wedge.ismedia.jp/category/cyber
・Yahoo!ニュース個人「塚越健司の情報社会学・社会哲学の視点から」
https://news.yahoo.co.jp/byline/tsukagoshikenji/

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