2021/02/12
金杉由美 図書室司書
『とわの庭』新潮社
小川糸/著
目が見えないわたしはいつも母さんといっしょだった。
その胸に抱かれ、その心臓の音を聞き、その声を聴いて育った。
母さんだけが、わたしの光で、すべてだった。
わたしの名は「とわ」、母さんの名は「あい」。「永遠の愛」で二人は結びついていた。
ある日、母さんがいなくなるまでは。
小さなおうちで暮らす母娘を描いた童話のようなプロローグから始まって、物語は少しずつ不穏な空気に包まれていく。
ふたりの住むおうちを訪ねるのは、水曜日に食べ物や日用品を持ってきてくれるオットさんだけ。電話をかけてくるのもオットさんだけ。他の人は誰もやってこない。
外の世界は得体のしれない音にあふれていて怖い。
片時も離れずに暮らしていたふたりだったけれど、母さんが外に仕事に出かけるようになったので、とわはひとりで留守番をしなければならない。でも大丈夫。ネムリヒメグスリを飲んで眠っていれば起きた時には母さんが側にいる。
ところが、ある日母さんは出ていったきり帰ってこなかった。誰にも話せない大きな秘密を持ったまま消えてしまった。
やがて飢えと孤独がとわを押しつぶそうとする。暗闇と静けさの中で時の感覚もなくなり、なぜ狂わずにいられるのかわからないほどの地獄の中を、彼女は手探りでさまよう。幸せの象徴だったおうちは、彼女を閉じ込める独房と化した。
長い長い果てしなく長い時間を煉獄で過ごした後、とわは外の世界へと脱出する。
ネグレクトされ棄てられた盲目の少女。
自分の足で地面を踏んだことがなく、土踏まずさえ出来ていない。
しかし彼女は、そんなか弱さに関わらず、生きようとする強い意志と勇気を持っていた。
見知らぬものばかりの世界の中で、生まれたての赤ん坊のようにすべてを学んでいく。
友情を知り、恋を知り、別れを知り、おいしい牛丼の作り方を知る。
この物語はとてもとてもカラフルだ。
目では視ることが出来ないけれど、彼女のまわりはいつも豊かに彩られている。小さなおうちで過ごした思い出にも、彼女が歩み入った新しい世界にも、色があふれている。
赤は、情熱。
青は、晴れ渡った空。
緑は、地球。
ピンクは、優しさ。
黄色は、太陽。
紫は、夕暮れ。
においや音や触感もにぎやかに彼女を包む。
四季の移ろいはにおいが知らせてくれる。
外界の音には心が弾み、もう怖くない。
恋人のキスや犬のぬくもりは愛おしい。
そう、もちろん味覚も忘れてはいけない。
ふんわりとしたパンケーキやサクッとした天丼、誕生日の特別なオムライス。
五感を楽しませてくれる描写が鮮やかであればあるほど、彼女が一度落ち、心の底にまだ潜んでいる地獄の闇が深く感じられる。
太陽の光が明るければ明るいほど、影も濃い。
でも彼女は、刺激に満ちたこの世界には、愛も満ちていると知る。赦すことも知る。
そして彼女は、土踏まずの出来た足で、しっかりと歩き出す。
光に抱きしめられながら。
身の回りの小さな幸せを救い上げて慈しみ丁寧に生きる。
とわが自然体でしているそういう暮らし方が、こんな時代に生きる我々にもきっと大切なんじゃないだろうか。闇の不安に怯えたり思うように出歩けない不自由さにいらだったりするよりも、すぐ足元で咲いている花の香りに喜びを感じることが、とてもとても大切。
こちらもおすすめ。
『ザリガニの鳴くところ』早川書房
ディーリア・オーエンズ/著 友廣純/翻訳
ノースカロライナの沼地で生まれ、家族に取り残された少女。
守ってくれる人も導いてくれる人もいないまま、独力で成長し美しい娘となった彼女に、殺人の容疑がかけられる。「湿地の少女」として町の住民たちから蔑みと好奇の目でみられている彼女は、容疑から逃れることが出来るのか。
美しく厳しい自然の中で暮らす少女の魂の強靭さが眩しい。
ミステリとしても瞠目の一冊。
『とわの庭』新潮社
小川糸/著