ryomiyagi
2019/10/17
ryomiyagi
2019/10/17
前回の自由平等主義(リベラリズム)に対して、リバタリアニズムという主張も存在する。完全自由主義や自由至上主義の名称で覚えている人も多いと思う。どっちも「自由」を謳っているが、両者の言っていることはだいぶ違う。
完全自由主義のほうは、中学校の社会で習ったロックを起源としている。ロックは『統治二論』(なつかしい)の記述を読んでもわかるように、やたらと労働と価値に重きをおく考えだった人だ。ようは、「俺が働いて得たものは、ぜんぶ俺のものだぜ」である。迫害と亡命を経験しているので、そんなふうに思ったのかもしれない。
なので、完全自由主義においては、国家からの干渉を極端に嫌う。あくまで個人が至上なのである。むしろ国家はいらないと考えていたのかもしれないが、それだと窃盗や殺人が発生したときに、犯罪者の権利が強くて捕まえられないかもしれない。だから個人は自分の権利を一部手放して、政府と契約し力を付与する。あくまで最低限の力である。
個人を尊重するのは自由平等主義も同じだが、尊重の度合いが違う。たとえば、自由平等主義のもとでは、個人が自由に仕事をしてお金を稼ぐが、あんまり稼ぎに差が出たら平等のためにそれを再配分しようとする。累進課税をしてお金持ちから多めに税金を取り、あまりお金を持っていない人に行政サービスを手厚くするような施策が典型的だ。
完全自由主義だと、これは我慢ならない。ロックはしぶちんである。なんで自分が頑張って働いて得たお金をぶん取られなければならないのか。自由な競争の結果なのだから、そのお金は自分に帰属するのが当然と考える。
もちろん、完全自由主義の人たちも公平な競争は重視する(公平な競争はなかなか難しい議論である)し、公平性を担保するために政府の介入も認めるのだが、ひとたび公平な競争の結果が出ればそれは受け入れるべきで、格差は自助努力で解決すべきだと発想するのである。
これが転じると、個人の意思の帰結であれば、遺伝子操作をして知力や容姿を優秀に書き換えたデザイナーズベビーをもうける権利も、高速道路で気にくわない車を煽る権利も、電車のドアが開いて人の流れが発生するけれども絶対に自分が立っている場所からどかない権利も、取りあえず主張できそうな気になる。
実際、完全自由主義はインターネット文化ではなかなか人気が高い。もともとインターネット上のコミュニティは、商業利用解禁以前から公権力に何か言われるのを嫌う風潮があったので、親和性が高いのである。
ぼく自身、インターネットにどっぷり浸かって生きてきたし、日本をはじめとする先進国はルールでがんじがらめになっていて、生きづらいなあと思うことが多いので、完全自由主義に魅力を感じないではない。
ただ、完全自由主義の前提になっている「公平な競争」は実現することが難しいし、どこまで実現すべきなのかもよくわからない。たとえば、完全に公平な競争のもとにいまの地位を勝ち取ったと考えている人たちも、実際に努力はしただろうけど、両親の資金力でいくつも予備校のサービスを享受できたからかもしれない。同じだけの能力を持ち努力を投じ、でも予備校などには通うことができず、結果として成績に差がついた人などごまんといるだろう。
ぼくだって、1980年代において、当時の十代としてはたぶん優れたプログラミング能力を持っていたと思う。アセンブラが書ける小中学生はあまりいなかった。そのために努力もした。でも、それが公平な競争の結果だったとは思わない。あの時代にパソコンを買ってもらえた小学生は多くなかったからだ。その時点で、すでに「差」はある。
差をどう考えるか、どこまで自分の責任なのか、親が持っている差は自分の差なのかは、実際のところよくわからない。障害児のこともそうだ。健常児と「公平な競争」をしたら、障害児はことごとく負けるだろう。そして、何物をも得られず、本人としては不満のある生活をすることになるだろう。
それを公平な競争の結果と受容するのか、障害児として生まれた時点で差があるのだからなんとかしてくれと言えるのかは、実は現在の先進国社会全体を覆う問題に帰結するのだと思う。
発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします
下記よりお送りください。
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