共生教育についての考え方(1)
岡嶋裕史『大学教授、発達障害の子を育てる』

 

障害児を健常児と分けて教育した方がいいのか、それとも混ぜて教育した方がいいのか、といった議論はよく聞かれる。自分の子どもを進学させるときも、ずいぶん迷った。もちろん、一昔前であれば、ある程度以上の障害を持った子は特別支援教育を受ける(すなわち、健常児とは分けられる)しかなかったので、選択肢が増えたということでもある。

 

一般的に、人生の選択肢が増えるのは良いことだと思うので、それは有り難い話である。ただ、選択肢が増えると、自分で選ぶ責任が生じるわけで、どの道に進んだらいいのか親は(年齢が進んでくると、子どもも)迷うことになる。

 

そう、これは迷うところなのだ。

 

医療関係者や療育関係者のなかにも、行けるなら普通教育、あるいは健常児と混ざった教育と考えている人は多いし、世の中の流れも分離した教育から混合教育へと進んでいる状況だと思う。

 

ただ、ぼく自身は、単に混合教育>分離教育の関係で捉えていないことは、これまでにも書いてきた通りである。これは壮大な社会実験のようなもので、まだ結果は出ていないのだ。

 

共同体が何かを行うときには倫理がベースになるけれども、今の社会に強い影響を及ぼしているのは、功利主義、自由平等主義、自由至上主義、共同体主義だと思う。ぼくが専門にしているインターネットの分野でもそうだ。

 

功利主義は、ベンサムの「最大多数の最大幸福」でとても有名だ。もちろん、幸せの総量は多い方がいいだろうから、考え方としてとてもまともである。

 

功利主義について、一つ誤解するとまずいのは、幸福の追求を勝手にやっていいと考える思想ではない点である。誰かの幸せが、他の誰かの不幸せに直結することはよくあるので、一人一人が自分の幸せを最大限に主張する(これは利己主義である)と全体の幸せが減ってしまう。

 

端的にこれを表すのは選挙だろう。自分が幸せだと考える方に一票を投じて、政策が決定される。少数側の意見は採択されず、その意見を持っていた人は悔しい思いをすることになるが、全体として幸せの量が増えたと考える。

 

このとき、一人一票が与えられ、性別や学歴によって選挙権がなかったり、持っている資産に応じて二票や三票になったりしないことは、最大多数の幸福のために重要である。

 

近代の政策決定のベースになる考え方なので、もちろん障害児教育もこの影響を受けている。私見が交じるが、教育に功利主義を適用すると、(教育の目的を、単に学力の獲得に限定するならば)定型発達の子と障害を持つ子の教育は分離されることになるだろう。実際に近代教育は普通教育と特別支援教育を分けてきた。

 

教育する側の立場で言えば、教える集団の学力レベルが揃っていれば揃っているほど教育効率がいい(極端な話、1対1の教育にしてしまえばいいが、それはコスパが悪く「最大多数の最大幸福」にならない。教育にお金をかけたくないと考える人も多いからだ)。

 

定型発達の子のみの教育であっても、進度別クラスに分けることがあるのに、そこに障害を持つ子が入ってくれば、確実に教育効率が落ちる。功利主義的にはあまり良い結果ではない。

 

もちろん、功利主義の枠内でも、「教育の目的は学力向上だけではない」とか「健常児と障害児がともに学ぶことで、お互いに社会性獲得などの利益がある」と考えることもできるが、学力の向上に比べれば副次的な効果ではあるだろう。だから、功利主義的な考え方ではかるならば、健常児と障害児の教育は分離した方がよいことになる。

 

しかし、功利主義やそこから導かれる多数決が、必ずしもよい結果ばかりを導き出してきたわけではないことは、歴史が証明している。逆説的だが、たぶん別の考え方も導入しないと、幸せを拡張していくことはできないのだ。

 

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下記よりお送りください。

 

大学の先生、発達障害の子を育てる

岡嶋裕史(おかじまゆうし)

1972年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程修了。博士(総合政策)。富士総合研究所勤務、関東学院大学准教授・情報科学センター所長を経て、現在、中央大学国際情報学部教授、学部長補佐。『ジオン軍の失敗』(アフタヌーン新書)、『ポスト・モバイル』(新潮新書)、『ハッカーの手口』(PHP新書)、『数式を使わないデータマイニング入門』『アップル、グーグル、マイクロソフト』『個人情報ダダ漏れです!』(以上、光文社新書)など著書多数。
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