akane
2019/01/01
akane
2019/01/01
認知症になると直面する苦悩について、事例を挙げながら考えていきたいと思います。まず考えてみたいのが、認知症と診断されたとき、いったいどのような気持ちになるかです。
あなたは、自分が認知症と診断されたら、どうしますか?「どうしよう」と、うろたえるでしょうか。「判定ミスでは?」と、否定するでしょうか。それとも、「なんで私が!」と、怒りを感じるでしょうか。
以下は、運転免許更新時の認知機能検査にまつわるエピソードです。
Iさんは、80代の男性です。運転免許更新時の認知機能検査で異常を指摘され、警察の指示で認知症専門医の検査を受けました。結果は、アルツハイマー型認知症でした。
ところが、その診断に納得がいかなかったIさんは、セカンドオピニオンを求めて家の近くの開業医を受診。認知機能検査を受けたところ、認知症ではないという結果でした。その診断書を持って警察に不服を申し立て、運転を続行。
警察は、第三者医療機関での診断を求め、別の専門医へ。認知機能検査の際に「今は何年ですか?」と問うと、Iさんは月日や曜日まで続けて答えようとしたため、制止して「今の季節は何ですか?」と問うと、怒り出しました。
そのほかの検査も合わせた診断結果は、「アルツハイマー型認知症」でした。
あなたは、このエピソードをどう思うでしょうか。
Iさんに、「自分は認知症である」という「病識」があったかどうかはわかりません。なかったかもしれませんし、「ひょっとしたら」と不安を感じていたかもしれません。
わかるのは、Iさんにとって運転が、自己のアイデンティティと深く結びついていること、そしてIさんが、必死で認知機能検査の回答を覚えようとしたことです。
自分が認知症であるという事実を受け入れられなかったIさんは、記銘力が衰えかけている中、懸命に、認知機能検査の回答を暗記しました。その甲斐あって、2回目の検査では合格点をもらいます。
どんなにか嬉しく、誇らしかったことでしょう。やっぱり自分は正しかった、あの医者が間違っていたんだ、と。
ところが3回目の検査では、予想外の展開になりました。2回目の検査では、「今日の日付は何年の何月何日、何曜日ですか?」だった問いが、3回目の検査では「今年は何年ですか?」であり、次の問いが「今の季節は何ですか?」だったのです。
交通の安全を守るという意味では、Iさんが車を運転できなくなるのは仕方ありません。事故を起こしてからでは遅いのです。
とはいえ、Iさんの気持ちを思うと、こちらまで胸が苦しくなります。当面は「なんで自分が!」とか、「医者や警察は何もわかっていない!」などと、怒りが激しく渦巻くでしょう。
しかし、怒りはやがて治まります。そのあと、Iさんはどうなるのでしょうか。
認知症は、自己と他者との、アイデンティティを巡る闘いでもあります。アイデンティティとは自己証明であり、「私はこういう人間です」と、相手に向かって証明しようとしているのに、「それは違う」と相手が言うのです。
以前は、本人は自分が認知症になったことがわからないし、つらくもないだろうと思われていました。
というのも、高齢になって、認知機能が自然に低下していく中で発症する認知症は、本人が気づきにくく、周囲が気づいたときにはすでに重度化していて、内面を語れる状態ではなかったからです。
また、認知症が痴呆と呼ばれていた時代には、差別的に扱われることが多かったため、内面を語れる人であっても、発言しなかったからです。
そのような状況が変わったのは、2004年、京都で開かれた国際アルツハイマー病協会の国際会議で、若年認知症の男性が自分の状態や内面を語ってからです。このときを境に、「本人は何もわからない」という、それまでの常識が覆りました。
そして、自分のことを語る認知症の人が増え、少しずつ理解が進みました。
現在は、認知症の知識のある人が増えたために、高齢であっても、自分が認知症かもしれないと気づく人がいます。
軽度のうちは、自分は認知症であるという「病識」もあります。そして、これから自分はどうなっていくのだろうという、「予期不安」に苦しみます。
自分が壊れてしまうのではないか、おかしなことをするのではないか、家族に迷惑をかけるのではないか。
そんな風に予期して不安に駆られ、苦悩するのです。
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以上、『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』(佐藤眞一著、光文社新書刊)から抜粋・引用して構成しました。
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