akane
2019/02/28
akane
2019/02/28
子どもを持つのはどうにも不安だった。
初めての子どもなど、誰でも不安に思うに違いない。しかし、ぼくの場合はもっと根源的なところで不安だったのだ。
そもそも、生き物を育てるのが苦手だ。
メダカ、金魚、ネオンテトラ、リス、カブトムシ……、自分の子ども時代に、我が家には色々な生き物がやってきたが、ことごとくが速やかに退場していった。鬼籍に入っていったのである。
リスやカブトムシはともかく、金魚なんて世話が必要なのかといぶかしむ人もいるかもしれない。しかし、生き物の世話が苦手という人は、とことん苦手なのだ。
自分としてはきちんとやっているつもりである。マニュアル本を買ってきて。その通りに世話をするのだが、どうにもうまくいかない。
あるとき、1日の仕事を終え深夜に帰宅すると、ネオンテトラが数匹水槽の周囲で亡くなっている光景に遭遇した。キャトルミューティレーションと見まごうような異景である。
そのとき初めて、魚にも自殺があるのだと知った。
あまりにも水槽の水が汚いと、清冽な環境を求めて、外へ飛び出していくのだそうだ。もちろん、うちの水槽のまわりには、彼らが求めた清い水資源はなかったが。
確かに水槽を見返してみると、緑色に汚濁した何か別の生命を生み出しそうなどろりとした液体がそこに広がっている。40億年前の生命のスープとはこのようなものだったのかもしれない。
でも、世話をサボタージュしたり、忘れたりしていたわけではないのだ。マニュアルどおりにやっても、どうしてもそうなるのである。どんなに懇切丁寧に教えているつもりでも、どうしても素因数分解が理解できない子がいるが、きっとこんな気持ちなのかもしれない。彼らもさぼっているわけではないのだろう。
思えば、ぼく自身に発達障害の素養があったのだろう。幼稚園では友だちがあまりおらず、でも本人はそんなことを一つも意に介することなく、ひたすら帝国海軍航空機のスペックを覚えて諳んじていたし、先生とはこんなやり取りがあった。
「どうしてお弁当のふたを開けないの?」
「誰が開けてくれるんですか?」
徹底的にズレていたのだ。
このズレは小・中学校へと進み、周囲が社会性を身につけるにしたがって大きくなっていく。ぼくもきっと周囲の目には相当奇異に映っていたのだろうが、なんとなくやり過ごしてしまったのには、いくつかの理由がある。
1つには、当時の検査態勢や、周囲の理解がやはり甘かった
今だったら、1歳児検診か、3歳児検診で、療育を進められていたことだろう。
そして、これがとても大きかったのだが、ぼくは成績が良かった。
当時のことだから、小・中学校でも学年の順位などは残酷に掲示されていたが、先生は東京都での順位をそっと耳打ちしてくれた。あの頃、成績の良い子は偉いと思われていたので、変な子にも種々のお目こぼしがあったのだ。自作のプログラムが定期的に雑誌に掲載されていたのも、先生たちのお気に入りだった。
特に熱心に勉強していたわけではない。むしろ、朝起きられない子で、無事に出席するより、欠席、遅刻、早退のほうが多かったくらいだ。でも、記憶力がよかった。いまは年を取ってだいぶ怪しくなってしまったが、教科書をざらっと眺めるだけで空欄補充問題などは対応できた。
だから、新作ゲームの発売日に学校に行かなくても、自作のプログラムの出来がよくて授業中にケラケラ笑い出しても、学校に居場所があった。療育施設などに行くことなく、中学校まで卒業できてしまったのである。
しゅるしゅると中学卒業まで漕ぎ着けたが、相変わらず人の集まるところは苦手だったので、高校は大検を取って代替することにした。20歳になって大学に進学するまでの5年間、ずっと「大戦略」と「信長の野望」をやり込んでいた。今になって振り返っても、至福の5年間である。人生があれだけ輝いていた日々はない。誰にも会わず、午前中に起きる苦行も経ず、落ち着いた深夜の空間にどっぷり浸かり、敵の裏をかく作戦だけを考えることができた。
大学に進学することになっても、当時の授業はぬるかったので、結局修士課程を修了するまでの11年間、ぼくはほとんどお昼まえには起きていなかったことになる。
そんな人間に子どもを育てることができるのだろうか?
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