akane
2020/01/09
akane
2020/01/09
騎馬戦に出るんですって。
もちろん、ぼくのことではない。運動不足で、休日はゲームに興じ、アニメを見て日が暮れていく人間がいきなりそんなことをしたら命にかかわる。
ぼくの子である。
いきなり何をしでかすのかと思う。
人前に出ていいことなど、何もないのである。ぼくが学生時代に学んだ一番たいせつなことは、人前で何かをすると笑われたり、恥をかいたり、色々するので、出来るだけ気配を消すのが吉だということだ。
これを信条に熱心に励んだせいで、ぼくのステルス能力はかなりの高みに達した。この仕事はいやだなあと思っておとなしくしていると、まず指名されることはないし、うっかり気配を消しすぎると、学生がぼくの存在を忘れてカンニングに励んでしまうほどである。前任校で、ぼくのカンニング摘発率はかなり高かった。
何なら実力行使に出てもいい。
ぼくの通った小学校は2年に1回、学芸会に参加しなければならない習わしだった。ぼくには村人8という、今思えば順当な役が割り振られた。せりふも「でも、だめだよ」だけである。先生たちも、クラスメイトたちも、このくらいならこいつにも務まると踏んだのだろう。突っ立って、しかるべきタイミングで一言棒読みしてくるだけの簡単なお仕事である。
感謝しなければならないところだ。
しかし、当時のぼくには、これはとてつもなく高いハードルに感じられた。跳び箱でいうと16段くらいの勢いである。無理だ。だから、当日はお腹がいたくなって、学芸会には行かなかった。もちろん、まわりに迷惑をかけるのは本意ではないので(自分にもブーメランが返ってくることは必定である)、「もしも、万一のことがあって、本番に出られなくなったら、このセリフはカットでいいですよね」と何度も先生に念押ししておいた。ハードルから逃げるための努力は惜しまないのである。
そういえば、「3学期の副委員長」という人望があるのかないのか実に微妙な役職に推薦されてしまったときも、投票のときまでのネガティブキャンペーンには時間も体力も惜しまなかった。重ねて言うが、ハードルから逃げるための努力は惜しまないのである。
そんなぼくの血を引いているはずのわが子が、騎馬戦の、しかも騎乗する側に立候補である。正気の沙汰ではない。そんなものに決まったら、少なくとも当日まで親の胃がきりきりし続けることは確定である。
「あぶないから、やめたほうがいいんじゃないかな」
「カートの方があぶないよ」
「ぼくは命の減価償却が進んでいるけど、将来のある人は気をつけないと」
「学校があぶないことをさせるはずはないから、だいじょうぶ」
……学校というのはおしなべて、前例さえあれば実はかなりあぶないことも平気でやる組織だとは思うし、歴史が長いからそうとうな前例の蓄積もあるのだが、そんなことを吹き込んだらそのまま学校で言ってしまうのが自閉スペクトラムである。攻め方を変えることにした。
「他の自閉さんたちは、立候補したの?」
「ぼくだけ」
そうだろう、そうだろう。自閉スペクトラムといえども、高学年にもなれば空気は読んでくるのである。その能力が伸びないのはぼくの子だけだ。
「ひとりだとさみしくない?」
「代表としてがんばってこいって」
気持ちよく送り出されちゃったのかよ!
「運動能力的に無理があるのでは?」
「試しにやってみたら、一番さいしょにはちまきを取られたね」
「それじゃあ、ウマの人たちもがっかりかもよ」
「ほんとうにダメなやつだなあって言われたけど、おとり役に適してるって。エンガノ岬沖海戦だね」
いやいやいや、それ、まわりの子たちいい子すぎるだろ!
ちなみにエンガノ岬沖海戦とは、日本の敗色が濃厚になった昭和19年秋に、連合艦隊が投機的に行った捷一号作戦において、主力の栗田艦隊をレイテ湾に突入させるために、小沢艦隊が囮となってハルゼーの機動部隊を北方へつり上げた戦闘のことである。ぼくの子は戦史マニアなのだ。ぼくも戦史は大好きなのだが、たまに記憶力を試されるような展開になることがあり、最近は父の威厳がだいぶ揺らいでいる。
それはどうでもいいのだが、小学校の運動会において騎馬戦は花形である。プロセスに目もくれず勝利を欲するお年頃の小学生たちが、大幅な戦力ダウンになること請け合いのぼくの子を騎馬戦のメンバーとして許容し、あまつさえ弱兵でも役に立てそうな作戦案まで示してくれるとは、日本のダイバシティ教育もだいぶ進んだものだと思うのである。ありがと。
発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします。
下記よりお送りください。
株式会社光文社Copyright (C) Kobunsha Co., Ltd. All Rights Reserved.