akane
2019/10/24
akane
2019/10/24
ぼくは学校が嫌いだった。
そもそも人が集まるところが嫌いだったし、人前で話すなどという行為は何の拷問だろうと今でも思う。
いまの発達障害の子は、大変だろうなと思う。
ぼくが少年時代を過ごした頃よりも、日本の社会のポストモダン化はずっと進んでいる。ものすごく雑に言い切ってしまえば、みんなが同じ価値観を信奉していた時代から、一人一人信じるものが違ってもいい方向へ舵を切っている。
「みんなちがって、みんないい」とか、高偏差値大学や大企業に行くばかりが人生ではないとか、恋愛対象も異性でなくてもいいし、子どもも作っても作らなくてもいいし……と、30年後はそうなってるんだって、ぼくの小学校の担任に言ってやりたい。ほーらねって。あと30年もすれば、恋愛対象としての二次元女子もきっと市民権を得るだろう。いや、それはそれとして。
価値観の多様化によって、障害児は恩恵を受けている。ぼくが子どものころは、学校教育の現場の先生だって、明らかに障害児を劣った存在として扱い、振る舞っていた。でも、いまは(少なくとも表面上は)そんなことを大っぴらに言ったら懲戒ものである。まあ、実はけっこういるけど。
障害も個性、ということで、お互いに認め合って生きようとか、社会に居場所が少し増えた。
でも一方で、多様化した社会は、その成員に高いコミュニケーション能力を求める。自閉スペクトラムの子にとって、最もつらい能力である。私も企業に勤めていた時期は、「コミュニケーション能力が必要です」などと企業説明会で学生相手に吹いていた。お前はどうなのだと突っ込まれたら、釈明のしようがない状況である。
大学に転職したときも、採用のプロセスで模擬授業などが課されなかった最後の世代だろう。昔の大学教員はとにかく著書や論文さえ書いていればよかった。模擬授業などやった日には、コミュニケーション能力がないのが丸わかりである。運が良かった。
価値観が一様だった社会では、人と会ったら天気の話でもしていればよかった。それでなければ、結婚か子どもあたりでOKだった。みんな結婚するし、みんな子どもを設けたので、話題として成立したのである。
でも、いまそんなことをしてしまったら、まごう事なきパワハラとセクハラととにかく何かのハラスメントのトリプルコンボである。結婚しない人も、子どもを持たない人も、二次元女子しか愛せない人もたくさんいるので、何かを絶対的に正しいと信じ込んだ発言は御法度である。その発言の方向性が、相手の信じているものと違った場合、容易に事案になる。現代の会話は無尽蔵の地雷が埋め込まれた荒野を征く行為である。
常に相手の好みや反応を取得し、軋轢を起こさないように会話の針路を調整しなければならない。そのためには信じる神も、好きな食べ物だって変えてみせる覚悟が必要だ。コミュニケーションにかかるコストはものすごく高くなったのだ。
これ、発達障害児には無理だろう。
いや、定型発達の子にだって難しい。だから、いまのいじめの大多数はコミュニケーションに起因して起こっているし、企業も採用において学歴よりも学習歴よりもバイト歴よりもコミュニケーション能力を重視する。こんなに計りにくい能力はないのに、大変なことである。
一昔前は、コミュニケーション能力の低い人には(別に発達障害でなくても)、それに向いた職業がそれなりの分量で存在していた。職人とか技術者とか大学教員とか。江戸期でも、発達障害(という呼び方はなかったが)の人は職人にするのがよいとした記録が残っている。
でも、いまはコミュニケーション能力なしの天才肌の職人とか、なかなか成立しないだろう。コミュニケーション能力がなければ芸術家も作品が売れないし、大学教員も競争的研究費が取れない。発達障害児の砦である福祉就労でも、早晩コミュニケーション能力が強く求められることになるだろう。人とやり取りするのが苦手な人には、生きにくい状況になったのだ(つづく)。
発達障害に関する読者の皆さんのご質問に岡嶋先生がお答えします
下記よりお送りください。
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