Canon’s note 12. 『 トゥルー・ロマンス』
映画がすき。〜My films, my blood 〜

BW_machida

2022/11/04

「ロックンロール」

 

どうしようもなく惹かれあい、側からみれば大馬鹿なことだって、二人でならひょいとやってのけられる。次はどうしようとか、自分はこうあるべきだとか、そんな計算の枠をぶっこえた胸の高鳴りと、煌めく「直観」のスパーク。どうなったって知ったこっちゃない、今、私がこうしたいから、するんだ。

 

「トゥルー・ロマンス」のヒロイン、アラバマと出会ったとき、身体中の細胞が目覚めたような気がした。なんて常識外れで、美しく、カッコいいんだろう。アラバマ、「グロリア」のグロリア、「ミリオンダラー・ベイビー」のマギー、「緋牡丹博徒」のお竜…。

 

私が演じたいのはこういう女性なんだ。

 

「トゥルー・ロマンス」(監督:トニー・スコット 主演:クリスチャン・スレイター、パトリシア・アークエット 日本公開:1994年)

 

「トゥルー・ロマンス」はプレスリーと映画をこよなく愛する青年クラレンスと、彼の誕生日に勤め先の上司が差しむけたコールガール、アラバマとの愛のバイオレンス逃避行ムービー。主人公クラレンスは仕事帰りにカンフー映画三本立て上映を見に行くのが日課のモテない男。誕生日当日、彼はいつものように劇場を訪れる。そこに現れる美しくセクシーなブロンドガール、アラバマ。彼女はクラレンスにポップコーンをぶちまけてしまい、そこから二人の距離がぐっと縮まる。

 

映画上映後、アラバマはクラレンスにパイを食べに行かないかと誘う。深夜のダイナーでパイを食べながらお互いのことを話す二人。その後、二人はクラレンスの職場のコミック屋へと行き、見つめあい、キスをする。当然のような流れで、二人はクラレンスのアパートで体を重ねるが、クラレンスが目覚めるとそこにアラバマはいない。寝ぼけ眼のクラレンスが開け放たれた窓へ近寄ると、外で泣いているアラバマを発見する。そこでアラバマは自分がクラレンスの上司が差し向けたコールガールであったことを告白するが、彼に本気で恋をしてしまった、信じてほしいと言う。クラレンスもアラバマにすっかり惚れてしまっていたので、二人は翌日に結婚してしまう。

 

アパートで仲睦まじく映画を観ている二人。アラバマを自由の身にするために、クラレンスは売春斡旋人のドレクセルを殺すことを企てる。鏡の前で震えるクラレンス。そこに現れる彼の想像の中のプレスリー。彼に鼓舞され、クラレンスは銃を携えてドレクセルの館へと向かう。自身が殺される寸前のところで彼は何とかドレクセルを殺し、アラバマの洋服の入ったスーツケースを持ち帰る。しかし、持ち帰ったのは別のスーツケースで、その中には大量の麻薬が入っていた。2人はその麻薬を売ってLAで新生活を始めようとするが、その麻薬は冷酷非道と名高いブルールーファミリーのもので、二人はマフィアと警察の両方に狙われるハメになってしまう。果たして二人は二人だけの安息の地をみつけることができるのだろうか。

 

劇中にアラバマの過去は全く描かれていないが、彼女が不遇の人生を送ってきたであろうことは容易に想像ができる。しかし彼女は底抜けに明るく、一途で、チャーミングなのだ。彼女がクラレンスと出会った夜、パイを食べながらクラレンスと話す彼女が「好きなものはミッキー・ローク、嫌いなものはペルシャ猫」と迷いなく答えるのもまた魅力的だ。彼女は商売相手のクラレンスを好きになってしまい、泣きながら「コールガールになってまだ四日目で客は三人目よ。だからまだ私は使い古しじゃない。すれっからしでもないわ、まともな女なのよ。好きな男のためなら100%尽くす女よ」と訴えかける。何が彼女をコールガールにさせたのか、理由は分からないが、本当にすれっからしになった女たちを目の当たりにもしたであろう、彼女の明るさがかえってその哀しさを引き立たせる。

 

私は幼いころからずっと自分が女であることに劣等感を感じていた。

 

「あんたが生まれてきた時は、おちんちん忘れて来たって思ったわぁ」

 

母は息子が欲しかったらしい。私を身籠った時の顔つきの変化から、おばあちゃんにも今度のお腹の子はきっと男の子だと言われていた。それに私が元気に母のお腹を蹴り上げるものだから、母も生まれてくる子は男の子に違いないと、私の誕生を待ち望んでいたという。私が男の子だったら、新之助か慎太郎と名付けていたらしい。新之助だったら友達にクレヨンしんちゃんとからかわれていたに違いない。

 

母は大学教員、父は設計士という、両親共働きの家庭であったため、私は0才から保育園に預けられていた。母はよほど息子が欲しかったのか、私は幼少期ずっと、ベリーショートのカリアゲカットにさせられていた。これではしんちゃんではなくて、コボちゃんである。お腹を蹴り上げていたベイビーはすくすくと成長し、有り余るエネルギーを爆発させる悪がきと化していった。

 

「ともちゃんはほんま男の子みたいやねぇ」

 

親戚が法事で集まれば、お兄ちゃん、おじちゃん、おじいちゃん、すべての男たちにおんぶや肩車をしてもらい、大はしゃぎ。逆に、お姉さんやおばさん達と話すのは妙に緊張したし、同い年の女の子達とお人形遊びなんて、考えただけで体中がむずがゆくなってしまうような子供だった。

 

母は毎日、仕事終わりに車で私を保育園まで迎えに来てくれていた。園児たちのほとんどが、迎えに来た母親に手を引かれ夕方には帰っていく。私は私と同じようなお残り組の子たちと、それを羨ましそうに眺めていた。そんなお残り組の子供たちもポツポツとまばらになり、今日は誰が最後かという頃に母がすべり込みで私を迎えに来る。私は母を見つけると、一目散に走って母に抱きついた。母はいつも香水のいい匂いがした。大人になって、それがジバンシイの香水であったということを知った。仕事でくたくたであったであろう母に、先生は言う。

 

「ともちゃんが棚の上に乗っかって暴れていました。何度言ってもききません。きつく言っておいてください」

 

私の目の前で堂々と告げ口をする。その時の母の申し訳なさそうな顔を思い出すと、疲れて迎えに来てくれたのに、そんな顔させてほんとゴメン。と、思えるのだけれど、親の心子知らず。当時の私は毎日いろんな悪さをして先生を困らせていた。

 

「これは何の動物でしょう?」
「はーい!!」
「はい、ともちゃん」
「うんこーーーー!!」

 

呆れ顔で他の子に解答権をパスしようとする先生にすかさず、おしっこ!と子供が好きそうな下ネタを連発。それを聞いてまわりの男の子たちがワッと笑う。一方で女の子たちは嫌だぁと、おませちっくな可愛らしい反応をする。私はそんな「女の子」の反応が大嫌いだった。

 

ふわふわしたパステルカラーのスカート、ツインテール、うさちゃん柄のハンカチ。私はスカートを履くことはめったになかったし、まず、カリアゲにスカートは似合わない。だからそういう、女の子的なものを自ら避けるようになっていた。着るものは○○レンジャーのトレーナーに短パン。お遊びの時間には、女の子たちが群がるシルバニアハウスには目もくれず、男の子たちと庭にあるジャングルジムによよじ登り、コウモリのようにぶら下がる。おままごとは大好きだったけれども、やるのは大抵お兄ちゃん、お父さん、ペットの犬。

 

でも、本当は羨ましかったんだと思う。本当はセーラームーンになりたかったし、着せ替えのできるりかちゃん人形で遊びたかった。けれど「女の子」である自分を表に出すのが何だか恥ずかしくて、許せなかった。女の子にどう接していいのかもよく分からなかった。男の子たちとは何も考えずに木に登ったり、泥だらけになって蛙を追いかけていればいいのに、女の子と遊ぶのはそう簡単にはいかない。何かあるとすぐに泣くし、誰々ちゃんとばかり遊ぶだの文句を言うし、いろいろと面倒くさい。唯一、自分が女の子らしい事をしていられたのは、お絵かきをしている時だったと思う。私は、顔の半分以上がキラッキラの瞳で占められた女の子の絵を画用紙に描きまくった。五歳児には人間の手を描くのが難しく、描く女の子のほとんどが手を後ろで組んでいるポージング。服装はセーラー服、もしくはワンピースにハイヒール。母のお迎えをひとりで待っている時は大抵、お絵かきをするか、再放送の北斗の拳を観ていた。

 

小学校に入っても相変わらずのカリアゲで、ガキ大将だった私は、小学三年生になり、心も身体も変化してくるこの時期に、ある衝撃を覚えた。これまで体育の授業があるときは、クラス一同、同じ教室で着替えていたのに、三年生になると急に、女子だけ「更衣室」で着替えるように言い渡されたのだ。この時、私はとてつもない違和感と嫌悪感を感じた。大人たちに無理やり「お前は女だ」と強制的にカテゴライズされたみたいで、気持ち悪かった。私、やっぱり女なんやな…。そうしているうちに、男子が更衣室を「覗く」という行為が生まれ、それがバレて先生に厳しく怒られる彼らのその行為が「悪しき事」だと理解し、私は男にそんな悪しき事をされる対象の生き物なんや、と劣等感を覚えた。おまけに、これまで一緒に泥まみれで遊んでいた男子たちが「女は入ってくんな」と私をのけ者扱いするようになった。急に「女」というタグを付けられた異世界に放り込まれたみたいで、戸惑い、哀しくなった。

 

家でも女であることの劣等感を強く覚え始めた。胸が少し膨らんできて、痛い。痛みを緩和するスポーツブラというやつを付けた自分を鏡で観て、その違和感に吐き気を催した。酔っぱらった父はいつも、ふざけて私が嫌がることをしようとしてくる。「おぉ、おっぱいでできたんかぁ」と茶化してくる父親に激怒し、殴り合いの喧嘩になるも、私の力で父に勝てるはずもなく、簡単に叩きのめされる。自分が女じゃなかったら、いつかこんなやつ倒してやるのに。

 

中学生になり、とうとう制服のスカートというやつを履かされて、初潮を迎えたことから、私も段々と自分が女性であることを受け入れ始めた。しかし、そんな頃にまた、衝撃を受ける事件が起こる。剣道部の早朝練習に出掛けた日の朝。真夏の太陽がさんさんとしている道を一人で歩いていると、道の向こう側に、人影が見えた。そのまま進んでいくと、黒いユニフォームのような服を着た、根元が黒くなった金髪頭の男が正面から歩いてくるのが分かった。ひと目で、あ、なんかヤバいなと思った。そう思いながらも、男と目を合わせないようにして、早歩きでトの字になった道路を右に曲がった。曲がるとすぐ目の前に校門が見える。大丈夫。大丈夫。恐怖で走ることができずに、一歩一歩、校門に向かって歩いていると、道を左に曲がって駆けてきた男の、ザッザッという足音が聞こえてきた。ヤバい。男が、後ろから掴みかかってきた。男は左手で私の右胸を掴み、右手で私の口をタオルで塞いだ。私はそのまま仰向けに倒れてしまった。倒れた時のスローモーションは今でもよく覚えている。校門の奥に広がる運動場の白い砂が、わっと水色の空に変り、目を刺すような真っ白な光に目を細めると、陰で塗りつぶされた男の顔が、私の上にぬっと覆いかぶさっていた。

 

「やめて!!!」

 

必死に声を出そうとしても、映画のような美しい悲鳴は上がらない。びっくりした時、キャッと言える女の子がとても羨ましいといつも思う。私は声にならない、かすれた低い声をなんとか絞り出して抵抗した。男の目を見てしまえば恐怖で動けなくなってしまうような気がして、目を細めて、男の顔が見えないようにして手足を思いっきりじたばたさせた。男の目に、色気のない子ザルが必死に暴れているかのように映ったのか、男はすぐに立ち上がると、もときた道を引き返して行った。トの字の曲がり角のところで、男がこちらを振り返って私を睨みつけた。私はその男の顔を、これまでの人生で一番の憎しみをこめて睨み返した。倒された時は何もやり返せなかったけれど、やられたままなんて絶対に嫌だった。その時の私の目が、その男のあるかも分からない良心を少しでも痛めつけていればいいなと思う。私はこの後しばらく、人に背後に立たれるだけで極度に恐怖を感じるようになってしまうのだ。やった側にもそれなりの何かを背負ってもらいたい。男は唾を吐き捨て、そのまま遠くへ駆けて行った。

 

女はなんでいつもこんな目にあうんだろう?

 

芸能界に入ったばかりの頃は特にみじめな気持ちになることが多かった。女は生意気なことも言えないし、次の作品の話をしたいからと呼び出されて行くと、性的なものを匂わされ、舐めんなよとキレると、役がなくなっているなんてザラにあった。今ではそんな監督やプロデューサーの私欲で決められるような役が大した役ではないことが分かるが、当時の自分には分からず、あぁまたこの手の誘いかと幾度となく実力で評価されない自分と、芸能界というものに幻滅した。お酌をされるのが当然だとふんぞりかえる男には、お酌なんてしてやんねぇよと無言の笑顔をお見舞いして、嫌われた。男が羨ましかった。男だったら実力だけで評価されるのに。後に、男には男なりの苦痛があることを知るけれども、当時は男に比べ、女であることが本当にみじめで、哀しかった。

 

LAに着いた二人は、麻薬の販売ルートを見つけ、輝かしい未来を想像しながらモーテルに戻る。クラレンスはハンバーガーを買ってくるからとアラバマを一人モーテルに落とし、出かけて行ってしまう。ウキウキと部屋に戻るアラバマ。しかし、部屋に入ると、マフィアの追手が銃を持って待ち構えていた。クラレンスと麻薬の場所を聞かれてもしらばっくれるアラバマ。男は制裁として彼女を殴りつけるが、彼女は怯えるどころか、必死に反撃する。このとき、私の身体中に衝撃が走った。めちゃくちゃかっこいい…。アラバマは己の弱さに、女であることに甘んじてはいない。身体的には劣っても、死ぬ気で愛する人を守ろうと、大男に美しい顔をボコボコにされても食らいついていく。弱音を吐いたり、色仕掛けで男をだまくらかそうともしない。体中が熱くなった。ニヤニヤと、笑いが止まらない。なんて気高いんだろう。私はこれがやりたい。

 

アラバマは向こう見ずで、頭の悪い女のようにも見えるかもしれないが、彼女は常に自分の直感に素直に行動しているだけだ。計算とか、妥協とか、そんなものを彼女は微塵も感じさせない。ただただ、自分の信じるものに突き進む彼女の姿は、神々しくさえもある。

 

彼女は自分のためにドレクセルを殺してきたクラレスに涙を流して言う。

 

「奴を殺したなんて…。なんてロマンティックなの!」

 

女に生まれたことにこれまで幾度となく打ちひしがれてきたけれど、このアラバマのような女を演じられるのは、女であることの哀しみを知っている、女に生まれたものだけだ。

 

物語冒頭のモノローグ。

 

みじめな境遇
人生はそういうものさ
だけど逆転するときもある

 

ロマンスも人生と同じ
大抵はみじめな結末
ただ滅多にない事だけど
逆転する事もある

 

アラバマはクラレンスと出会い、己の人生を変えるホンモノの恋に落ちた。
クラレンスもまた然り。

 

モノローグにあるように、男と女のロマンスは大抵みじめな結末に終わるのだろう。私自身も何度も恋愛に失敗し、その度に女であることの哀しみを育んだ。しかし、この二人を見ていると、本当に、人生を変えてしまうトゥルーロマンスがあるのかもしれないと、微かな希望を抱かせてくれる。脚本を担当したクエンティン・タランティーノは当初、最後に二人がバッドエンンディクを迎えるように書いたそうだが、監督のトニー・スコットがクラレンスとアラバマを大好きになってしまい、二人に悲しい結末を迎えさせたくないと、ハッピーエンディングにかえてしまったそうだ。

 

クラレンスとアラバマは、作り手にも大きな影響を与え、己たちの悲しい結末を、ハッピーエンドに逆転させた。
この作品には、そんな、予想もできない二人の奇跡がつまっている。
これぞ、ロックンロールだと思う。

 

私は困難や己の宿命と闘う女性が出てくる映画が大好きだ。彼女たちが己の前に立ちはだかる壁を突破した時、私自身が生きる世界の壁にも、微かな希望の穴があいたような、そんな清々しい気持ちになる。

 

女であることの根源的な哀しみは一生なくならない。そう思うからこそ、私は「女優」でありたいと思う。女優は私にとって、女であることを自由に表現することのできる、女にしかできない最高の、ロックンロールなのだ。

 

予想だにしない何かを起こせるような、そんな無敵な気分になれるときは、いつも、怖さと、わくわくが同居している。そんなときは怖さをそっと抱きしめてあげて、わくわくに、身を任せてあげるんだ。
縄田カノン『映画がすき。』

縄田カノン

Canon Nawata

1988年大阪府枚方市生まれ。17歳の頃にモデルを始め、立教大学経営学部国際経営学科卒業後、役者へと転身。2012年に初舞台『銀河鉄道の夜』にてカムパネルラを演じる。その後、映画監督、プロデューサーである荒戸源次郎と出会い、2014年、新国立劇場にて荒戸源次郎演出『安部公房の冒険』でヒロインを務める。2017年、荒井晴彦の目に留まり、荒井晴彦原案、荒井美早脚本、斎藤久志監督『空の瞳とカタツムリ』の主演に抜擢される。2019年、『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』にてニコラス・ケイジと共演、ハリウッドデビューを果たす。2021年には香港にてマイク・フィギス監督『マザー・タン』に出演するなど、ボーダレスに活動している。高倉英二に師事し、古武道の稽古にも日々励んでいる。趣味は映画鑑賞、お酒、読書。特に好きな小説家は夏目漱石、三島由紀夫、吉村萬壱。内澤旬子著『世界屠畜紀行』を自身のバイブルとしている。
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