Canon’s note 14. 『 フォレスト・ガンプ 』
映画がすき。〜My films, my blood 〜

BW_machida

2022/12/26

「運命」

 

これまで幾度となく出会いと別れを繰り返し、今年は父を亡くし、失恋もし、一生引きずるだろうなと思った喪失感も予想より早く癒え、これからもこんな苦しい別れと、かけがえのない出会いを繰り返していくのだろうと、少し、腹を括った。

 

「かけがえのない出会い」なんてそもそもないのかもしれない。あれは必然だったとか、偶然だったとか、所詮全ては後付け。この人と運命を共にしようと決意してもひょんなことからそれは簡単に崩れ去るし、まさかお前がという人が窮地を救ってくれたり、アンタ変わんないねと、何となく仲の良かった小学校の友達と今も連絡を取り合ったりしている。

 

そもそも運命なんてものはなくて、
私たちはただ、生と死の間を流れるように生きているだけなのかもしれない。

 

子供の頃によく金曜ロードショーでやっていた「フォレスト・ガンプ」。
父と母が映画館で二人で観た最初で最後の映画らしい。オヤジは泣いているマミーの横で熟睡していたみたいだけれど。

 

久しぶりに観て、懐かしいなという気持ちと、新たに思うことがたくさんあった。

 

「フォレスト・ガンプ 」(監督:ロバート・ゼメキス、主演:トム・ハンクス、日本公開1995年)

 

バス停のベンチに座っている一人の男。彼はおもむろに、隣に座りバスを待つ女性に自分のことを話し始める。彼、物語の主人公フォレスト・ガンプは生まれつき「普通」の人よりも知能指数が低く、背骨のゆがみから、足に装具を付けなければ歩行もままならない子供であった。フォレストは養護学校への入学を勧められるが、彼の母親は「普通ってなに?お前はみんなと同じ。何も間違っていない。”バカをする者”が”バカ”なのよ」と彼を励まし、グリーンボウ群立小学校に通わせる。

 

登校初日、スクールバスに乗ったフォレストに子供たちが隣に座るなといじわるをする中、ジェニーだけがフォレストを隣に座らせ、それを機に二人は仲良くなる。

 

ある日、学校でいじめの標的にされていたフォレストに奇跡が起きる。自転車に乗って追いかけてくるいじめっこから無我夢中で逃げるうちに、装具が外れ、そのはずみで走れるようになったのだ。それ以降、装具なしで歩けるようになったフォレストは、自転車をも寄せ付けない俊足となる。

 

フォレストと遊ぶ時、ジェニーはいつも家に帰りたがらなかった。彼女はアルコール中毒の父親に性的虐待を受けていたのだ。酒に狂った父親が追いかけてくる中、フォレストとジェニーは二人で必死に畑の中を走って逃げた。

 

ある日、父が警察に逮捕され、ジェニーはフォレストの家の近くにある親戚の家に越してきた。二人の仲は深まり、何をするときも一緒だった。

 

二人は高校生となり、フォレストは相変わらずいじめっこたちから走って逃げる日々を過ごしていた。ある日、いじめっこたちの車から逃げる最中、試合中のフットボール場を横切ったフォレストは、大学のアメフトチームの監督の目に留まり、大学に入学することができた。女子大に行ったジェニーとは変わらず仲良くしていたが、年頃のジェニーには当然彼氏ができていた。

 

アメフトで毎試合大活躍したフォレストはやがて全米代表選手になり、ホワイトハウスでケネディ大統領と面会する機会をも得た。

 

大学卒業後、特にやりたいこともなく、スカウトされた軍隊に入ったフォレストは、将来自分のエビ漁船をもつのが夢だというババと仲良くなり、共に戦火の激しいベトナムへと派遣される。

 

ある日、敵の奇襲攻撃を受け、小隊は壊滅状態となる。銃弾の雨をかいくぐり、負傷した兵士たちを運ぶフォレスト。しかし親友ババが見つからない。そんな中、足を負傷して動けなくなった上官、ダン中尉を発見したフォレストは「おれの事はほっとけ」と救助を拒む彼を無理やり救い出す。その後、フォレストはババをようやく見つけだすが、誰が見ても助からない状態のババ。しかしフォレストは無我夢中で彼を抱えて走る。安全な場所に辿り着いてすぐに、ババは「うちに帰りたい」と言って彼の腕の中で息絶える。

 

尻に銃弾を浴びたフォレストと、両足を負傷したダン中尉は軍病院へと運ばれた。尻に包帯を巻き、ストレッチャーにうつ伏せでアイスクリーム食べ放題だと喜ぶフォレストの横で、両足を失ってしまったダン中尉は抜け殻のようになっている。ある夜、すやすやと眠るフォレストをベッドから引きずり降ろしたダン中尉は「おれは戦場で名誉の戦死を遂げるはずだった。その運命を貴様がぶち壊したんだ!」と苦しみに満ちた表情で彼に訴え、「これからどう生きていけばいい…?」と途方に暮れるのだった。翌日、フォレストがダン中尉のベットを訪ねると、そこには見知らぬ男が寝ていた。彼は何も告げずに退院していた。

 

病院での暇つぶしではじめた卓球で驚異の才能を見せたフォレストは、一気に卓球にはまっていく。ベトナムからアメリカに帰国後、ジョンソン大統領から名誉勲章を授与されたフォレストは、その帰りにふと立ち寄った反戦集会でジェニーと再会する。フォレストとジェニーはこれまでのことを話しながら一晩中歩いた。翌朝、僕の恋人にならないかと告げるフォレストを残して、ジェニーは自分を虐げる恋人と共にまた旅に出てしまう。

 

その後、卓球の全米代表選手に選ばれたフォレストは一躍有名人となる。そんな中、フォレストはダン中尉と再会する。ニューヨークで荒んだ生活をしていたダン中尉。その後間もなくしてフォレストは除隊となり、卓球で得た資金で「ババ・ガンプ・シュリンプ」を設立し、亡き親友ババとの「ふたりでシュリンプボートに乗ってエビ漁を始めよう」という約束を果たす。しかし、漁果は散々だった。

 

ある日、ダン中尉が漁港に現れ、船員に加わった。しかし一向にエビは獲れない。運がないのは船に名前をつけないからだよ、という村人のアドバイスをきいたフォレストは船に「ジェニー」と名付ける。ある夜、ハリケーンが発生し、他のエビ漁船が壊滅状態になる中、フォレストたちの漁船だけは運よく無事に漁港に戻った。それからは大漁が続き、やがて「ババ・ガンプ・シュリンプ」は誰もが知る会社へと成長する。

 

幸運の女神がフォレストたちに微笑みだした矢先、フォレストの元へ彼の母が病に倒れ、もう先が長くないと言う知らせが届く。フォレストはすぐさまダンに会社を任せて家に帰るが、ほどなくして母は亡くなってしまう。

 

たった一人の家族を亡くしたフォレストが哀しみに暮れる中、ダンは会社を成功させて得た資金でベンチャー企業時代のAppleに投資し、その後、Appleが上場したことで億万長者になり、そのお金をフォレストに送った。あり余るほどのお金を手に入れたフォレストは、その半分をババの遺族へ渡し、残りも「多くを持ちすぎてはいけない」という母の教えを守り、さまざまなところに寄付した。それでも一人で生きていくには十分すぎる富を手にしたフォレストは、一人気ままに芝刈りをして過ごした。

 

ある日、いつものように芝刈りをしていると、彼の前に最愛の人、ジェニーが現れる。二人はかつてのように毎日散歩をしたり、木に登ったり、これまでのことを話した。そのまましばらくジェニーはフォレストの家で暮らした。真摯に自分を愛してくれるフォレストに、いつしかジェニーの疲れ切った心も癒やされ、ふたりは幸せな日々を過ごした。フォレストはジェニーにプロポーズをするが、ジェニーは「あなたは私なんかとは結婚したくないはずよ」と断る。その晩、ジェニーはフォレストの部屋を訪ね、二人は初めて一夜を共にするが、翌朝フォレストが目覚めると、そこにジェニーの姿はなかった。

 

また一人に戻り、ジェニーのいなくなった家で茫然としていたフォレストは、ジェニーに贈られたスニーカーを履いて、ふと外に飛び出す。彼はそのままひたすらに走りはじめる。フォレストが何往復もアメリカ横断を繰り返すうちに、大勢の人々が彼のあとを追うように走りはじめ、いつしかフォレストは「平和を願って走る男」として、アメリカ中の話題になる。三年間、休みなく走り続けたフォレストは、ある日ふと立ち止まり、「疲れたから家に帰りたい」と言い残して走るのをやめてしまう。フォレストが家に帰ると、テレビを見たジェニーからフォレスト宛に手紙が届いた。

 

ここから物語は現在に戻る。フォレストがバスを待っていたのは、ジェニーに会いに行くためだったのだ。フォレストの話をまったく聞こうとしない人、半信半疑に聞く人、バカにする人、親身になって聞く人、入れ替わり立ち替わり、さまざまな人達がバスを待ちながらフォレストの話を聞いていたが、最後の聞き手である老婦人から、ジェニーの住んでいる場所がバスに乗る必要がないほど近くだと教えられたフォレストは走り出し、ジェニーの住むアパートの一室へ辿り着くのだった……。

 

いつからだろうか、人に期待するのをやめた。

 

芸能を始めたばかりのころは常に、他力本願だった。〇〇さんが私を引き上げてくれるかもしれない、マネージャーが大きな仕事をくれるかもしれない、あの人に気に入られたい。なんであいつばかり。どうせ枕やってんでしょ、私は絶対にやらない。だけど、本当はちょっと、羨ましかった。そんなこんなの中途半端な八方美人で、上手く立ち回ることもできず、窒息しそうになり、ノイローゼになり、ついに自分なりの答えを見つけだした。

 

人に期待しない。
自分にも期待しない。
でも、自分の好きなことには正直に。
良いものには良いとちゃんと言う。

 

自分「以外」「以上」になることはできない。むかしは自分がジョディ・フォスターやニコール・キッドマン、ヒラリー・スワンクになれると信じていたし、クリント・イーストウッドと仕事がしたいのに、できない自分に本気で苛立っていた。自分には才能があると信じ切っていた。しかしある時、映画雑誌に載っていたある女優のインタビューを読んで衝撃を受けた。私は彼女にはなれない。当たり前の事実に打ちひしがれた。

 

私は日本人で、こういう見た目の、私という乗り物にのって、父母姉という家族に囲まれ、これまで色んな人達と出会って生きてきた。好きなものは、映画とフードカルチャー。マルチワークができない一点集中型で、かなりの不器用、そして忘れ物を信じられないほどよくする。買い物に行って、買い物袋を忘れてくる、又は買い物袋を提げ、財布の入った鞄を代わりに忘れてくる。考え事をしていたら目的駅から山手線で半周ほど過ぎていた、もたまにやる。自分の不器用さをこれまで自分で飽きるほど呪ってきたが、不器用だからこそ乗り越えてこれた局面も多々あった。人より器用に出来ないことをよく肝に命じているので、パニックにならないように、普通の人がひょいとできることを、人よりも時間をかけて何度も確認する。それでようやく人並みになれる。でもそのお陰で、普段見過ごしがちな物事の「真理」のようなものに触れられることがある。その時は神様、ありがとうってつぶやいたりする。その直後に免許証をどこかに忘れてきたりして、神様、この野郎ってつぶやいたりもする。

 

こんな欠陥だらけの自分だけども、不思議と、出会い運だけには恵まれてきた。もちろん、頑張って「普通」をやっているときの私を好きになって下さって、それを保てなくなった時に愛想を尽かして去っていく人たちもいたけれども、騙してしまったのならごめんなさいね、でもわたしもあなた、いらないし。不器用丸出しで、こんがらがってる私のことを、それでも認めてくれる人達に、私はこれまで幾度となく救われてきた。

 

フォレストには全く私欲がない。彼は母の教えを守り、ただ実直に、己の大切な人、己の好きなものに真摯に向き合う。そんな彼の姿に、みな最初は彼をバカにしたり、首をかしげつつも、次第に彼に癒され、魅了され、ここぞという時に彼に救いの手をさしのべる。

 

自分の死を悟った母はフォレストに優しく語る。

 

死は誰もが持ってる運命なの。「私の運命」はあなたの母親として生きたこと。私はその中で、私なりに努力したわ。あなたも自分の運命をはやくつかみなさい。あとは自分の力で努力することよ。

 

「僕の運命って?」
「それは自分で見つけるのよ」

 

ここで彼女が彼に贈った言葉は、映画名セリフの一つとしても有名だ。

 

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで中身はわからない」

 

自分の手で箱を開け、どんなチョコレートを選び取るかは自分自身で決めるの。神があなたに与えたもので、ベストを尽くすの。

 

人は誰しも生まれたら死ぬ運命を背負っている。ジェニーのように酷い父親のもとに生まれつく運命や、ダン中尉のように両足を失ってしまう運命を背負うこともある。

 

「人間には持って生まれた運命ってものがある。最初から決められているんだ。おれは部下と戦死すべきだったのに、おれのこのザマを見ろ!両足がないんだぞ。貴様のせいだ。おれは戦場で名誉の戦死を遂げるはずだった。そういう運命を貴様がぶち壊したんだ!これは俺の運命じゃない。おれはもうダン中尉じゃない」

 

「今でもダン中尉は、ダン中尉です」

 

両足を失い途方に暮れるダン中尉に、フォレストはありのままを言う。

 

フォレストの前から姿を消した後、ダン中尉はしばらく自堕落な生活を送っていたが、フォレストと再会し、エビ漁船に乗ってフォレストと過ごすうちに、段々と、瞳に輝きを取り戻し始める。ハリケーンの後、ババ・ガンプ・シュリンプの経営が軌道に乗り始めたころ、ふと「助けてもらった礼をまだ言ってなかったな」とダン中尉はフォレストに言うと、そのまま海に飛び込み、清々しい表情で空を仰ぐのだった。

 

運命は確かにある。

 

縄田智子として生まれ、カノンとして芝居をしながら、これまでたくさんの出会いと別れを繰り返してきた。役者としてはまだまだ未熟で、このコラムを連載する機会を頂き文章を書くなかで、芝居も、文章の才能も、そもそも、生きる才能がないと四苦八苦して、もっと器用にできたら、もっと利口だったら、もっと英語が話せたら・・・と、挙げ始めたらきりがないほどのないものねだりをして落ち込むこともある。けれども、私は父母の元に生まれたことを誇りに思うし、縄田智子という乗り物に乗って、そこでしか見れない風景を見ながら、運命という名の予測不能なけもの道を何とか進んでいる。

 

ジェニーに取り残され、おもむろに走り始めたフォレストは何往復もアメリカ横断をするうちに「平和を願って走る男」となり、人々に希望を与えるが、当の本人はただ走りたいから走っているだけなのだ。人にどう思われるかなんて自分ではコントロールできないし、こう思われたいと期待してやるものほどつまらないものはない。大概は自分の思い描いたようにはならないし、だからこそ、思いもしなかった風景をみられることもある。

 

自分の欠点を捉え、人にも、自分にも期待しなくなった分、自分の「好き」に正直になれるようになった。その「好き」を追及していくうちに、誰が何と言おうと、自分が良いと思うものには胸を張って良いと言えるようになった。そうするうちに、その「良い」ものの共通点みたいなものがぼんやり分かってきて、それが己のあらゆるものに対する「ものさし」となった。

 

もちろん、一人でそのものさしを得たわけではない。これまで出会ったあらゆる人たちが、私の冷え固まった思考に火を灯し、日々コツン、コツンと、気付きのある言葉を私に投げかけてくれた。時にはゴンとハンマーを打ち付けられ、ボコボコにされて、そこから軌道修正をしてまたコツン、コツン。そんなこんなで、ようやく輪郭ができあがってくる。そこにまた誰かが火を灯し、コツン、コツン、熱したり、水をぶっかけたりして、ようやく出来上がった私のものさし。

 

今はそれに日々ゆっくりとやすりをかけている。そして、やすりをかけ終わりピカピカになったころにまた、この人だという人に出会い、火を灯し、またコツン、コツンと打ち直していくのだろう。

 

三年前、引っ越した先で見つけたアルバイト。そこの風変わりな女将さんが古武道を習っていて、役者さんも多いから見学においでと言われて訪ねた道場で、わたしの、当時まだそこまで鋭くなかったものさしが「ここだ」と私に語りかけた。以後、宗家、高倉英二先生に師事し、技だけでなく、人としての在り方を学ぶ日々。最初は技をなかなか覚えられず、パニックになり、身体は道場にいるのに、心は宇宙に旅立ち、なかなか帰ってこれないような状態によく陥った。道場に行くのが辛い時もあったけれども、先生をはじめ、仲間たちが、いつもしびれをきらさずに「待って」いてくれた。荒戸さんは言った。「待つ」ことも、教育の大切な一部なんだよと。高倉先生も荒戸さんも、いつも私を見限らずに待っていてくれた。

 

すべてのことは繋がっている。
芝居にも、古武道の稽古にも、文章にも、掃除のしかたひとつにも、その人のすべてが表れる。今も私は、日々、自分の不器用さに打ちひしがれながら、それでもそこでできる自分なりのベストを更新している。

 

こんな私を見捨てずに、私よりも、私の才能を信じてくれる人たちに、心から感謝したい。

 

「かけがえのない出会い」は確かにある。だけどもそれは、人生という道を歩いている中で、ランダムにぽーんと投げられた球を、自分で意識的にキャッチするか、無意識でキャッチしたあとに、そこに意味を見出すのか、みたいな事なのだと思う。

 

「僕らにはみな運命があるのか
それとも風に乗ってたださまよっているのか
たぶん
その両方だろう
両方が同時に起こっている」

 

すべては自分次第。

 

14回に渡ったコラム連載も、これでおしまいです。

 

この連載のお話を頂いたとき、文章をまともに書いたこともない役者のはしくれの私が「映画評」なんて立派なものを書けるはずない、と怖気づきそうになりましたが、そうだ、それなら私の血肉となった映画たちを、私の人生の物語に絡めて紹介してみようと、意を決して書き始めました。

 

私的な話ばかりになってしまい、果たして自分が紹介した映画たちを読者の方々に観たいと思って頂けるのかと不安になることもありましたが、たくさんの方から、「この映画を観たくなりました」とか、「また観たくなりました」というメッセージを頂き、勇気を頂き、何度も逃げそうになりながらも、己と向き合いながら何とか最後まで書き続けることができました。

 

連載を読んで下さった読者の皆様、
私に文章を書く機会を与えてくださった、光文社の田邊さん、千さん、町田さん、
そして私の文章に可能性を見出してくださったテアトル・ド・ポッシュの川口さんに、
心から、感謝の気持ちを込めて。
ありがとうございました。

 

縄田カノン

 

縄田カノン『映画がすき。』

縄田カノン

Canon Nawata 1988年大阪府枚方市生まれ。17歳の頃にモデルを始め、立教大学経営学部国際経営学科卒業後、役者へと転身。2012年に初舞台『銀河鉄道の夜』にてカムパネルラを演じる。その後、映画監督、プロデューサーである荒戸源次郎と出会い、2014年、新国立劇場にて荒戸源次郎演出『安部公房の冒険』でヒロインを務める。2017年、荒井晴彦の目に留まり、荒井晴彦原案、荒井美早脚本、斎藤久志監督『空の瞳とカタツムリ』の主演に抜擢される。2019年、『プリズナーズ・オブ・ゴーストランド』にてニコラス・ケイジと共演、ハリウッドデビューを果たす。2021年には香港にてマイク・フィギス監督『マザー・タン』に出演するなど、ボーダレスに活動している。高倉英二に師事し、古武道の稽古にも日々励んでいる。趣味は映画鑑賞、お酒、読書。特に好きな小説家は夏目漱石、三島由紀夫、吉村萬壱。内澤旬子著『世界屠畜紀行』を自身のバイブルとしている。
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