「七代目圓生問題」はなぜこじれたのか?【第58回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

五代目圓楽は生前、自ら率いる「圓楽一門会」の組織図を明確化し、鳳楽・好楽・圓橘・楽太郎を「幹部」とした。圓楽没後は総領弟子の鳳楽が会長職を継ぎ、新たに楽之介が幹部に昇進。現在は鳳楽が顧問となって好楽が会長を継ぎ、圓橘は相談役、六代目圓楽が幹事長、楽之介が副会長である。この「幹部制」が確立されていたからこそ、圓楽亡き後も一門会はそのまま「五代目圓楽一門会」という団体として機能し続けた。

 

五代目圓楽が「圓楽の名は楽太郎に継がせ、鳳楽には七代目圓生を継がせる」と公言したのも、組織のトップとしての責任感からだろう。その時点で圓楽は落語家としての引退を表明しており、楽太郎の六代目圓楽襲名は自分の存命中に行なうつもりだった。実際に楽太郎が六代目圓楽を襲名したのは五代目没後の2010年3月1日だったが、この日程は圓楽存命中に決められていたものだ。

 

問題となったのは、「総領弟子の鳳楽には七代目圓生を継がせる」という、もう1つの“遺言”である。

 

僕は当時、鳳楽の出る落語会にはよく通っていた。メインは日暮里サニーホールで開かれる「三遊亭鳳楽独演会」。2008年6月20日、そこで配布されたプログラムには、演目についての薀蓄の他に「鳳楽の七代目圓生襲名について」という項目があり、次のように書かれていた。

 

「5月2日付朝日新聞夕刊に、鳳楽の師匠である圓楽師匠の元気な近況が掲載された。その中で『師匠圓生の名跡と自らの名前について弟子に襲名させる決心をした』との記事で『林家正蔵、林家三平と大きな襲名が続いている。これらが一段落したら、圓生を鳳楽に、あたしの名前を楽太郎に譲ろうと思っています』と圓楽師匠の談話として載りました。いよいよ現実味をおびてきた鳳楽の七代目圓生襲名、これからも皆様のご贔屓をよろしくお願いいたします」

 

それは、僕から見ると、ごく自然な流れだった。

 

鳳楽は国立演芸場で「圓生百席に挑戦」と題した独演会を継続的に開いていたし、横浜にぎわい座ではその名もズバリ「七代目三遊亭圓生への道」という独演会もやっていた。圓楽一門会の拠点である「両国寄席」で「六代目の遺産 鳳楽、圓生を語る」と題した特別プログラムを観たこともある。出囃子も六代目圓生と同じ「正札付」だ。

 

圓楽の一番弟子として入門した彼の前座名は「楽松」。名付け親は圓楽の師匠である六代目圓生で、「松」は圓生の本名「山崎松尾」から取ったもの。当時の圓楽が「星の王子様」で売れて多忙だったこともあり、楽松は圓生の許に毎日通って前座修業をしている。実質的には「圓生最後の弟子」に近かった。

 

初の孫弟子である楽松を圓生は可愛がった、と聞く。鳳楽の著書『隠居の重し』(かや書房/1998年)によれば、入門早々圓楽をしくじって「クビだ!」と言われた楽松が、それを圓生に告げると、圓生は圓楽に電話して「楽松をクビにしたのなら、私の弟子にしようと思う」と言ったほどだという。(ちなみに同著の副題は「はるかなる円生への旅」だ)

 

楽松のまま二ツ目となり、1979年には圓生が設立した「落語三遊協会」初の真打として鳳楽を襲名している。「真打に相応しい芸の持ち主だけを昇進させるべきだ」という圓生が、大量真打を誕生させようとする五代目小さんと対立した結果生まれたのが三遊協会であるだけに、鳳楽の真打昇進は「これが私の認める真打だ」と圓生が宣言したことになる。

 

その鳳楽が、七代目圓生を継ぐという。「遂にその時が来たのだな」というのが率直な感想だった。持ちネタといい風格ある高座といい、圓生直系の一門の誰かが名乗るなら、少なくとも現時点では鳳楽しかいないのだろうと思えたし、何より当人がその気満々なのはそれまでの経緯から明らかだった。

 

だが、その後しばらく、具体的な襲名への道筋が示されることはなかった。

 

鳳楽が自ら七代目襲名の意志を表明したのは、2009年10月末に亡くなった圓楽の「お別れの会」でのことだ。

 

そこで明かされたのは、圓楽の病状が悪化した2009年春に圓楽一門会の幹部が「六代目圓生三十三回忌の2011年をメドに鳳楽が七代目圓生を襲名する」という方針を固めたこと、それに対して既に圓生の孫1名の賛同を得ているということだった。

 

その孫というのは圓生の次男でマネージャーだった人物の長男だという。

 

だが「襲名」には、門外漢にはわからない様々な問題が絡んでくる。三遊亭圓丈の1986年の著書『御乱心』には、圓生夫人と五代目圓楽との間に確執があったように書かれており、圓生夫人は「三遊協会の名も圓生の名も、誰にも使わせない」と宣言した、とある。実際、圓楽以外の圓生一門が落語協会に復帰した後に圓楽一門が名乗ったのは「大日本すみれ会」(5年後に「落語圓楽党」と改称)であって、圓生が設立した三遊協会を継いだわけではなかった。

 

この、圓生夫人の「圓生の名は誰にも継がせない」という意向が、七代目圓生問題を徹底的にこじらせた。

 

(この項続く)

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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