akane
2019/05/23
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2019/05/23
21世紀、志ん朝の死によって俄然存在感が大きくなったのが、柳家小三治だ。
志ん朝存命中に「志ん朝の不幸はライバルがいないこと」と言い、談志のことを「志ん生になったつもりの自称天才」と揶揄した作家がいたことは、以前書いた。
その「志ん朝ファンでアンチ談志」の作家は、志ん朝の死の直後「東京の落語は終わった」と嘆いたが、それから1年も経たないうちに、「もう柳家小三治しかいない」と、小三治を持ち上げてみせた。以前は志ん朝以外の落語家を「一山いくらの芸人」と言っていたのに。
突然「もう小三治しかいない」と言われても当人は迷惑だろうが、志ん朝不在という大きな欠落を埋めるべき「古典落語の名手」として、それまで以上に小三治の存在がクローズアップされたのは事実だ。
1939年生まれの小三治は、年齢で言えば談志より3歳、志ん朝より1歳若いだけだが、真打昇進は談志よりも6年、志ん朝よりも7年遅く、70年代までは「志ん朝、談志、圓楽」のグループより1つ下の世代と捉えるのが普通だった。だが、1983年に談志が落語協会を脱退して寄席に出なくなって以降、小三治を「志ん朝に次ぐ存在」と見る傾向が強まってきたように思う。
個人的にそれを感じたのはTBSの「落語研究会」での小三治の位置付けだ。もともと談志は1980年以降ここには一度も出たことがないし、大ネタを度々掛けていた五代目圓楽も1988年の出演が最後。90年代になると完全に「志ん朝・小三治」が二枚看板の扱いとなった。そして、それがそのまま落語ファンにとって、東京落語界における「格付け」として定着することになる。談志と圓楽が寄席に出なくなって久しい90年代、いつしか「四天王」という言葉は消え失せて、「志ん朝・小三治」がツートップとなったのである。
もっとも、そんな落語ファンの想いを知ってか知らずか、90年代も終わりに近づくにつれ、小三治は「マクラの人」として知られるようになっていく。
志ん朝が落語協会副会長に就任した1996年、「もう一方の古典落語の雄」であるはずの小三治は、「メリケン留学奮戦記」「ニューヨークひとりある記」「玉子かけ御飯」と3枚の随談CDをソニーよりリリースして評判となり、1998年にはマクラだけを集めた書籍「ま・く・ら」(講談社文庫)が大ヒット、すっかり「マクラの小三治」のイメージが定着する。21世紀に入ったばかりの2001年5月には続編「もひとつ ま・く・ら」(講談社文庫)も出版された。
自身でもよく言うことだが、若い頃の小三治は余計なマクラは振らずに作品をきっちりと演じるタイプ、談志言うところの「作品派」だった。それが「マクラの小三治」となっていったのは、「落語は作品を演じるのではなく、登場人物の了見になるべきもの」「落語は“おはなし”なんだ」という小三治の「芸の開眼」と軌を同じくしていた、と僕は思う。「上手い落語を聴かせて唸らせるのではなく、お客さんとおはなしをするために高座に出る」という姿勢が、そのまま「自然体のマクラ」へと繋がったのである。
「作品を演じない」境地に至った小三治は、志ん朝とは異なるタイプの「噺の達人」としての道を歩むようになる。談志と志ん朝が「己派と作品派」という対比で語られるとするならば、志ん朝と小三治はいわば「作品派と了見派」という対比で語ることができる存在になっていた。
そして、「作品派の頂点」たる志ん朝を失った21世紀、小三治は「了見になる」落語の真髄を極めていく。演者自身が落語の登場人物と同じく、そこで起こる物事に初めて遭遇するように感じ、「それからどうなるの?」と引き込まれる……それが落語の理想であると小三治は言い、自らの高座でそれを実践していくのである。
僕が、自分が観た落語の記録を残すようになったのは、ナマの高座を観に行く頻度が格段に増えた2002年のことだった。その時点で僕は2001年9月まで遡って「高座演目一覧」を作り始めたのだが、そこに記された「21世紀に観た小三治の高座」は、2001年9月22日の「朝日名人会」(有楽町朝日ホール)から始まる。
この日の「朝日名人会」は本来、志ん朝がトリを務めるはずだったが、体調不良で休演。小三治はその代演である。僕は小三治が出ると知ってからチケットを買った。
「朝日名人会」はネタ出しの会だが、当日プログラムを見ると小三治は「おたのしみ」とあり、実際に演じた落語は『備前徳利』。といっても『備前徳利』はむしろオマケのようなもので、聞きものは35分に及ぶマクラだった。
このときのライヴ録音は「ドリアン騒動〜備前徳利」と題してソニーよりCD化されており、長いマクラはタイトルどおり「シンガポールでドリアン(臭いことで有名な果物)を買ってみた」という話題がメインなのだが、その前の「入船亭扇橋と2人で桂文朝の家に行ったらあまりに綺麗なので疲れた」という話も抱腹絶倒モノだった。
この高座でドリアンの話をしたのは、有楽町駅前の果物店でドリアンを売ってるのをたまたま見たから。文朝の家の話をしたのは、この日の出演者に文朝がいたから。そういう偶然が、二度と聞けない傑作マクラを生んだ。これこそが、小三治のナマの高座を追いかける醍醐味だ。観客は皆、小三治が「志ん朝の代演」であることを忘れたはずだ。僕自身、この高座に触れたことで、それまで以上に熱心に小三治を追いかけることになった。
ちなみに『備前徳利』は三代目小さんの速記から小三治が掘り起こした、15分程度の噺。マクラが長くなって残り時間が少ない時に重宝なネタとして当時はよく演っていたが、2004年以降聴いたことがない。
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