agarieakiko
2019/02/07
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2019/02/07
「ヘタだけど面白い二ツ目」立川こしらについて初めて書いたのは、2009年11月5日に発売された「週刊モーニング」誌上だった。
2008年6月に『この落語家を聴け!』を出したとき、こしらは僕の視野に入っていなかった。存在を知らなかったわけではない。2002年に志らくの総領弟子であるこしらが二番弟子の志ららと共に前座から二ツ目への昇進を決めた「二ツ目トライアル」の会にも、僕は足を運んでいた。ただ、そのときのこしらの高座の記憶はまったくない。三番弟子の志ら乃もトライアルに参加していて、「客の投票で昇進を決める」というので僕は志ら乃に投票したくらいだ。
僕は当時、志らくの熱烈な追っかけで、「志らくのピン」「志らく百席」「志らく四季の会」といった独演会のみならず、レギュラー出演で一席だけ演じる「下丸子らくご倶楽部」や上野広小路亭での「志らく一門会」にも足繁く通っていた。志らくは、下丸子や一門会で途轍もない名演を聴かせてくれることがあったからだ。
だが、こしらは一門会にもめったに顔を出さなかったし、一門の弟子が「若手バトル」を行なう下丸子で彼を観た記憶はない。そして、一門の誰もそれを不思議に思っている様子はなかった。「落語をマトモにやろうとしないヘンな総領弟子」というのが志らく一門におけるこしらの評価だったし、僕も正直、当時はこしらを「レザーの着物で高座に出たりするキワモノ」だと思っていた。
そんなこしらを僕が見直したのは、2008年10月19日の「志らく一門会」。この日、仲入り前に登場したこしらが演じた『あくび指南』が、衝撃的なまでに面白かったのである。古典落語の伝統という物差しで見れば「ヘタ」なのは相変わらずだったが、落語常識を無視した規格外の発想で『あくび指南』を独自に作り替えたこしらの高座は、あまりに新鮮だった。次から次へと繰り出されるバカバカしい台詞と仕草に爆笑しながら、僕は「こしらってこんなに面白かったっけ?」と驚かずにはいられなかった。
そして2ヵ月後の12月21日、こしらは「志らく一門会」でトリの志らくの前に高座に上がり、『時そば』を演じた。このときの高座は『あくび指南』ほど強烈なインパクトはなかったが、オリジナル演出の『時そば』として充分に面白く、こしらの「落語家としての技量の向上」を感じて好ましく思えた。かつては「トークが面白い」演者というイメージだったのが、ちゃんと「落語が面白い」人になったのだ。僕は、この一門会で配布されたチラシで翌年こしらがお江戸日本橋亭で毎月独演会をやることを知り、ぜひ行ってみようと心に決めた。
とはいうものの、他にも追いかけたい落語家が大勢いる中で身体は一つ、なんだかんだでスケジュールが合わず、実際にその月例独演会「こしらの集い」に初めて足を運ぶことができたのは、2009年も後半の8月14日のことだった。
行ってみて驚いたのは、板張りの客席に椅子が置かれているだけだったこと。いつも「月例談笑独演会」「気軽に志ん輔」「市馬落語集」等で慣れ親しんできたお江戸日本橋亭は「前方が畳敷き、後方が椅子席」で、どちらもビッシリ埋まっていた。だが「こしらの集い」では閑散とした空間に椅子がまばらに置かれ、観客は十数人いたかどうか……。
と、客の入りは寂しかったが、内容は素晴らしかった。午後7時半開演で、8時近くまではトーク。その後、約1時間で『あくび指南』『厩火事』『火焔太鼓』の三席を演ったのだが、どれも最高に面白い! 『あくび指南』を聴くのは二度目だが新鮮に笑えたし、『厩火事』『火焔太鼓』も独自の解釈による改作が施されていて、次々に飛び出すオリジナルなフレーズのバカバカしさが爆笑を生む。脱線も多く、フレーズどころか噺の展開までオリジナルだったりする。(この日以降、こしらを追いかけていく中で、僕は「もはやまるで違う噺」になっている「改作」にも度々出会うことになる)
こしらの高座は、普通の落語家とはまったく異質だ。こしらは古典落語という素材を弄び、自己流で「面白い噺」に作り替える。そこには、談笑のような「古典を現代に通用させるための改作」という思想はない。ただ「面白くしている」だけで、伝統へのリスペクトが感じられないのである。そもそも落語をまったく知らないまま志らくに入門したというし、伝統に寄り添ってスキルを磨こうという意志もなさそうだ。
だが、問答無用に面白い。古典落語としてではなく、「高座で独り語りをする演者」として面白いのである。これを邪道と言う向きもあるだろう。しかし、落語の歴史を振り返れば、こういう「伝統に寄り添わない」タイプの「爆笑派」はそれほど珍しくはなかったはずだ。
こしらの落語への冷めた向き合い方は、立川流という「落語界の異端集団」において、さらに「異端」だ。だが、頭でっかちの「落語マニア」ではないからこそ、こしらは純粋に「面白さ」を追求できる。そんなこしらの世界に、僕は魅了された。
伝統芸能としての正しさを求める落語通には嫌われるであろう「こしらの面白さ」を、僕は世間に伝えたいと思った。いや、「伝えたい」というより、「こしらの落語にエキサイトしている事実」を文章にせずにはいられなかった、というほうが正しいだろう。
かくして僕は、「週刊モーニング」の連載『今週この落語家を聴け!』の第24回でこしらを取り上げ、こう書いた。
「古典落語のテクニックという点では上手くない、というか、ヘタ。時には『おいおい!』と心の中でツッコミたくなることもある。でも、メチャメチャ面白い! あまりに素敵なバカバカしさ! 今はまだ空振りも多いが、振り回したバットが芯でボールを捉えた時の飛距離は伴宙太級だ」
「『落語家としての自覚ゼロ』なこしらのブッ飛んだセンスは、彼の落語に存分に活かされている。上手くないことによってダレそうになっても、次の瞬間『おおっ!』と思わせる途轍もない台詞が見事に出てくる。その『面白さ』が飛んでくる方向があまりに予想外で、意表を突かれて爆笑してしまうのだ」
「こしらは『ヘタだよ!』と開き直って演る度胸の良さがある。『ウケなきゃ』とビクビクしてない。いい意味でのいい加減さを常に保って落語を演っている。そこが魅力だ」
こういう誉め方をした相手は、立川こしらただ一人。これからも出てこないだろう。
(この項続く)
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