文蔵を襲名した橘家文左衛門【第37回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

市馬や喜多八を目当てに寄席の定席に足繁く通うようになって新たに「発見」したのが橘家文左衛門だった。

 

文左衛門は1962年生まれ。市馬の1つ下だが入門が1986年と遅く、2001年9月に真打昇進。二ツ目の「橘家文吾」時代に春風亭昇太、立川談春、立川志らく、柳家小緑、三遊亭新潟、横目家助平らと共に「らくご奇兵隊」というユニットを組んでいたことは知っていたが、当時は高座を観たことがなかった。

 

ちなみに横目家助平も文左衛門と同じく2001年9月に真打昇進、「柳家一琴」と改名した。一琴は師匠小三治の独演会で開口一番を勤めることが多く、その高座で一琴の面白さを知った僕は、2004年以降なかの芸能小劇場での独演会やレギュラーの「五人回しの会」(他に三遊亭萬窓、入船亭扇好、五街道喜助、柳家三三が出演)などで一琴を追いかけるようになっていたが、その時点で僕は文左衛門の高座に巡り合う機会がほとんどなかった。

 

文左衛門を意識的に追いかけるようになったのは2006年からだ。この年の1月下席、上野鈴本演芸場では市馬が夜のトリを取っていた。上野鈴本は僕が勤務するBURRN!編集部からタクシーですぐなので、僕は市馬観たさにこの芝居に通った。

 

その「市馬トリ」の芝居に、文左衛門が毎日出ていたのである。

 

文左衛門の出番は、仲入りを務める扇遊や菊之丞の前の18時40分。そこで連日聴いた『桃太郎』『手紙無筆』『寄合酒』などの面白さに僕は衝撃を受けた。「前座噺をこんなに面白く演れるなんて!」という驚きである。

 

それ以来、文左衛門を目当てに寄席に通うようになった。前述の3席の他『のめる』『道灌』『千早ふる』あたりがヘヴィ・ローテーションで掛かったが、何度聴いても面白い。夏には豪快な『夏どろ』『青菜』なども聴けて、これがまた最高だった。

 

2007年5月には文左衛門率いる「ボク達の鹿芝居プロジェクト」による『ボク達の鹿芝居 文七元結—イタズラ好きの神ホトケ—』を観劇。このときアンケートに住所を書いたからだろう、7月下旬に僕のところへ文左衛門から「上野鈴本8月上席夜の部主任」を案内するハガキが来た。さらに日曜に池袋演芸場の喬太郎トリの芝居に行ったら、仲入りで文左衛門が客席に現われ「鈴本夏の陣」と書かれた割引チラシを配る、という場面にも遭遇する。

 

その「文左衛門 鈴本夏の陣」(8月上席夜の部)に、僕は割引チラシを持って8日間通った。文左衛門のトリネタは『天災』(1日)、『青菜』(2日)、『らくだ』(3日)、『青菜』(4日)、『文七元結』(5日)、『のめる』(6日)、『道灌』(9日)、『ちりとてちん』(10日)。7日は立川談春の独演会「白談春」、8日は談春ゲストの「桃太郎三番勝負」と被ったので鈴本に行けなかったのだが、2日休んだ後の9日には、この芝居でずっと18時40分に上がっている三遊亭歌武蔵から「昨日、いらっしゃいませんでしたね」と高座から言われた。(僕はいつも最前列の真ん中に座っていたので)

 

定席以外だと、文左衛門は2007年に始まって僕が通い続けた「ビクター落語会」に市馬や喜多八などと同様よく顔付けされていたし、池袋演芸場やなかの芸能小劇場での「文左衛門大会」も楽しみだった。『この落語家を聴け!』を出した2008年には三鷹文鳥舎での「考える文左衛門」という小さな会にも通うようになる。翌2009年には「文左衛門倉庫」(当初駒込カフェ角庵/後に蔵前ことぶ季亭)と「箱の中の文左衛門」(らくごカフェ)が始まり、もちろん足を運んだ。

 

小さな会などで、文左衛門は気さくに客と話す。よく覚えているのは、「考える文左衛門」で『もう半分』をネタ出ししたとき、開演前に知人たちと「まだ『もう半分』出来てなかったりして」と話をしていたら、当の文左衛門が私服姿で歩いてきて「弱ったなぁ、『もう半分』まだ出来てなくて」と話しかけてくれたこと。「後半はいいんだけど、前半が難しくてね……。ネタおろしなら勢いで演っちゃうってのもアリなんだけど、今度はそういうわけにはいかないから。ただ覚えて演ればいいってもんじゃない」と言いながら、『もう半分』について小三治に話を聞きに行ったというエピソードを教えてくれた。「あの噺の肝は、亭主が金は無かったと爺さんに言う瞬間だって言うんだ。でもそれ聞いたらまた判らなくなっちゃって」

 

僕は、「小三治に聞きに行く文左衛門」と「答える小三治」という図を想像して、なんだかとても嬉しくなった。

 

『この落語家を聴け!』の「いま、観ておきたい落語家達」という章で、僕は喜多八の次に文左衛門を紹介し、その冒頭で「柳家喜多八と同じように、僕に『寄席の楽しさ』の真髄を味わわせてくれるのが、橘家文左衛門だ」と書いた。その出版以降、文左衛門はどんどん売れっ子になり、ホール落語にも多く出演するようになった。持ちネタも増え、寄席の主任もコンスタントに務めている。東京落語界の「今」を代表する演者の1人になった、と言っていいだろう。

 

文左衛門の師匠、師匠の二代目橘家文蔵は、たった一人の弟子が真打昇進する2001年9月に亡くなっている。

 

4年ほど前だっただろうか、僕がプロデュースする落語会でトリを取った文左衛門と飲んでいて、なにげなく「師匠の名前、継がないんですか?」と訊いたところ、彼は「うん、実は継ごうと思ってるんですよ」と答えた。

 

そして2016年9月、文左衛門は三代目文蔵を襲名し、50日間の襲名披露興行を大成功させた。あれだけ「文左衛門」で親しまれていたのに、瞬時に「文蔵」が定着し、違和感がまったく生じなかったのは、それだけ似合っている、ということだろう。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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