談志亡き後の立川流【第79回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

五代目圓楽が組織図を明確にしていた圓楽党と異なり、談志存命中の立川流は家元である談志の弟子がAコース(落語家)、Bコース(有名人)、Cコース(一般人)に分類されていただけだった。「顧問」はいたけれども、それは談志との個人的な繋がりによる名誉職のようなもの。つまるところ立川流は家元である談志の求心力で保たれていた団体であり、あらゆる決定権は「家元」談志が掌握していた。

 

その家元が亡くなった後の立川流はどうなったか。

 

2012年6月、落語立川流という団体における家元制度が撤廃され、新たに総領弟子の土橋亭里う馬が代表に就任することが報道機関に向けて発表された。

 

談志の弟子で香盤が一番上なのは桂文字助だったが、文字助は二ツ目の三升家勝松時代に師匠の六代目三升家小勝が亡くなったため談志一門に移ってきた弟子。生え抜きでトップは里う馬だった。

 

同時に立川流は代表の下に理事会を置くことになり、立川左談次、立川談四楼、立川談幸、立川志の輔、立川志らく、立川雲水の6人が理事に就任した。

 

ただし、2018年の末に刊行された「東都寄席演芸家名鑑」(東京かわら版)の落語立川流の項を見ると、里う馬は「代表」となっているが、「理事」の肩書は誰にも付いていない。理事会そのものが撤廃されたのである。2015年の夏に刊行された「東西寄席演芸家名鑑」(東京かわら版)では談四楼、談幸、志の輔、志らく、雲水が理事となっており、左談次が理事から外れてはいるものの理事会自体は存続していた。つまり、撤廃されたのはそれ以降ということになる。

 

2014年から2015年にかけての時期、おそらくこの「理事会制の撤廃」にも何らかの関係があると思われるイベントがあった。「真打トライアル」だ。

 

談志が定めた立川流における真打の基準は「落語百席と歌舞音曲」。これを家元である談志が認めることで真打昇進となった。

 

談志没後、最初に真打になったのは2012年12月の立川こしら・立川志ら乃。彼らの昇進は2011年10月に志らくが一門のトライアルで決めた。

 

2013年4月には直弟子の立川談修が真打昇進。談修は2010年2月、入院中の談志を見舞った際「真打になっていい。口上に並んでやる」と言われており、以後談志は度々「談修は真打にする」と公言していたので、実質的には「談志存命中の昇進」に近い。

 

2013年12月には志の輔一門の総領弟子である志の吉が「晴の輔」で真打に昇進した。

 

2015年7月に談四楼が出版した著書「いつも心に立川談志」(講談社)は談志の晩年からその後の立川流について「亡き師匠への手紙」という形式で綴ったものだが、そこにはこうある。

 

「志の輔門下の志の吉はキャリア充分、一門こぞって賛成し、名を晴の輔と改め、立派な昇進披露をしました。さてそれからです。直弟子や孫弟子の二ツ目がわんさかいるのです。我らとしては何としても彼らを真打に押し上げなければなりません」

 

ちなみに談志が定めた立川流における二ツ目の基準は「落語五十席、歌舞音曲、講談の修羅場、寄席の太鼓」。2002年5月に立川こしらと立川志ららが志らく一門でのトライアルで孫弟子初の二ツ目となったときに談志は彼らを見ていないが、それ以降は孫弟子に関しても談志が直接見るようになった。

 

2012年からの新体制では直弟子の前座はおらず、談志の孫弟子の「前座から二ツ目へ」は各師匠の裁量に任せられたが、2012年4月に談笑が一番弟子の吉笑(2010年11月入門)を二ツ目としたのに続いて二番弟子の笑二(2011年6月入門)もスピード昇進させようとした際に「3年は前座をやらせるべき」との声があり、以降「前座は最低でも3年」がルールとなった。

 

前述の談四楼の著作によれば、理事会で「今後はトライアルで真打を決めたらどうか」と提案したのは志らく。既に一門でやっているのを立川流全体に適用しようというもので、基本は「観客による投票で決める」というシステム。投票の結果で誰か1人が飛び抜ければわかりやすいが、そうではないときに備え、代表と理事が彼らの噺を聴いて協議する。

 

トライアルに参加する資格は「二ツ目になって5年以上」。最初のトライアルは2014年10月、11月、12月、2月、3月と日暮里サニーホールサロン(定員100)で5回にわたりトリを廻り持ちする形で行なわれた後、4月4日に内幸町ホール(定員188)で決勝というスケジュールで、挑んだのは立川志らら、立川らく朝、立川談奈、泉水亭錦魚、立川らく里の5人。談菜は左談次門下、錦魚は談志の直弟子で師匠没後は龍志門下。他の3人は志らく一門だ。

 

2015年4月の決勝で出た結果はというと……なんと全員が真打昇進!談奈は左平次、錦魚は小談志、らく里は志ら玉と改名した。

 

この「全員合格」という結果に、理事会でも一門の総会でも「このトライアルに意味はあるのか」という異論が出たようで、結局この「立川流としての真打トライアル」はこのとき限りで終了。以後は「それぞれの師匠が認めればいい」ということになり、二ツ目たちはそれぞれのやり方で師匠にアピールすることになった。

 

立川流という大きな枠組みで重大事項を決めるということは、これでほぼなくなった。ということは理事会も不要……そんな流れだったのかもしれない。

 

そしてもう1つ大きかったのは、理事の1人である立川談幸の「立川流脱退~落語芸術協会への移籍」だ。

 

談幸の芸協移籍は2014年12月に代表の里う馬から理事会で報告され、談幸は「師匠の死から3年経ち、自分も還暦になった。これからは寄席の世界で生きたい」と移籍の理由を述べたという。

 

2015年1月から談幸が芸協に移籍する旨はまず真打全員に通達され、毎年恒例の1月2日の新年会の席上で正式発表された。

 

師の後を追って2015年4月から芸協入りした2人の弟子、吉幸と幸之進は共に二ツ目から前座に逆戻り。ただし、立川流で18年のキャリアがあり真打も間近だった吉幸は翌2016年4月に二ツ目、2019年6月に真打に昇進した。幸之進も2017年3月に二ツ目に戻っている。談幸は芸協の重要な戦力として寄席の世界で活躍し、弟子も増えた。

 

立川流の定席である日暮里サニーホールや上野広小路亭での「立川流寄席」の事務一切を引き受けていた談幸の移籍も、理事撤廃に影響があったのではないだろうか。(立川流寄席の顔付けなどは当初雲水が引き継ぎ、その後は志ら乃が担当しているようだ)

 

今の立川流は、年に一度全員が顔を合わせる1月2日の新年会で「総会」を開き、それぞれの弟子の昇進や入門・破門などを報告するのが唯一の公式行事となった。談志の命日近辺によみうりホールで行なわれる「談志まつり」、国立演芸場や新宿末廣亭の余一会での「立川流一門会」などの重要なイベントは談志のマネージメントを行なっていた「談志役場」(代表は談志の長男・松岡慎太郎氏)が仕切っている。

 

「立川流」という括りは「組織」ではなく「談志一門」を意味する。そして談志亡き後、団体としての実態はないに等しい。

 

しかし、だからこそあえて「立川流」に意味を持たせようとする動きもある。

 

その中心にいるのは「談志の孫弟子」世代の若手たちだ。

 

(この項続く)

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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