「五代目圓楽一門と、それ以外の圓生一門との確執」【第59回】著:広瀬和生
広瀬和生『21世紀落語史』

21世紀早々、落語界を大激震が襲う。
当代随一の人気を誇る、古今亭志ん朝の早すぎる死だ(2001年10月)。
志ん朝の死は、落語界の先行きに暗い影を落としたはずだった。しかし、落語界はそこから奇跡的に巻き返す。様々な人々の尽力により「落語ブーム」という言葉がたびたびメディアに躍るようになった。本連載は、平成が終わりを告げようとする今、激動の21世紀の落語界を振り返る試みである。

 

「三遊亭圓生」という名跡は、六代目没後に関係者5人の連名で「止め名」(もう誰にも継がせない名跡、との意)としたのだという。

 

これは、2008年5月2日付の朝日新聞に圓楽の「鳳楽を七代目圓生に」とする談話が掲載されたことを知った三遊亭圓窓が、当日のブログで明かしたことだ。

 

それによると、圓生を「止め名」とした5人とは六代目圓生夫人、稲葉修(元法務大臣)、京須偕充氏(ソニー)、山本進氏(演芸研究家)、そして五代目圓楽。2008年5月の時点で圓生夫人と稲葉元法相は他界しているが、京須氏と山本氏は健在。「存命の2人に無断で談話を発表した圓楽は横暴だ」と圓窓は憤った。

 

だが、五代目圓楽の存命中に正面切って鳳楽の七代目圓生襲名に「待った」を掛ける動きはなかった。引退していたとはいえ、やはり圓楽の存在は大きかったということだろう。「七代目圓生問題」が世間を騒がせることになったのは2009年10月29日に圓楽が亡くなって以降のことである。

 

口火を切ったのは三遊亭圓丈だった。圓丈は2010年2月1日発売の雑誌「正論」3月号誌上での塚越孝氏(フジテレビ)との対談で「名跡は孫弟子ではなく圓生の直弟子が継ぐべき」と発言、公に鳳楽の七代目襲名に異を唱えると、自ら七代目襲名に立候補。鳳楽と芸での直接対決を謳った「緊急!!圓生争奪杯」を3月17日に浅草・東洋館で実施した。

 

もっとも、そのイベントは単なる落語会に過ぎず、何事も進展していない。僕自身は銀座ブロッサムの「立川志らく独演会“志らく、百年目を語る”」に行っていて「圓生争奪杯」は観ていないのだが、報道によれば当日は塚越孝氏、大友浩氏(演芸プロデューサー)、高信太郎氏(漫画家)、鳳楽、圓丈による討論会(圓生の二番弟子川柳川柳も飛び入り)が行なわれ、鳳楽が『妾馬』、圓丈が『居残り佐平次』を演じたが、観客による投票のようなことは行なわれず、勝敗を決めることなくお開きとなったという。

 

すると今度は圓窓が七代目圓生襲名に名乗りを上げた。圓窓は2010年5月17日の落語協会理事会で「遺族から襲名を要請された」と襲名の意欲を明かしたのである。

 

新聞報道によると、4月6日に六代目圓生の長男と圓窓、圓丈らが話し合い、そこで長男から七代目襲名許可を得た圓窓は5月7日付で長男の署名入り「七代目三遊亭圓生の襲名確認書」なる文書を圓丈、鳳楽に届けたという。

 

「兄弟子が名乗りを上げたのだから」と圓丈は七代目襲名の棄権を表明するものの、圓窓が「師匠の八代目春風亭柳枝が亡くなってから圓生一門に移ってきた」外様なので納得していないと公言していた。

 

この件について落語協会は「一門で解決すべき問題だ」としながらも「圓窓による七代目圓生襲名の可能性」を示唆した。

だが圓窓は2011年9月6日のブログで「9月3日の圓生三十三回忌の折、圓生の名跡は圓生の名跡は夫人の遺言どおり、留名として六代目圓生の長男が管理することになったと表明。「留名」は圓窓のブログにあった表記だが、「夫人の遺言どおり」と言うからには「止め名」(誰にも継がせない)の意と思われる。だが2010年の段階で圓窓は「止め名解除のお墨付き」を得て行動を起こしたとも言われているので、真意は不明なところがある。

 

そもそも、江戸以来の大名跡を六代目で終わらせる権利など、誰にあるのだろう。五代目圓生は六代目の義父だが、四代目までの圓生は六代目と無関係だ。この大名跡を六代目の夫人の意向で「誰も名乗れなくなる」のは筋が通らない。

 

連名で「止め名」とした中の1人である京須氏は、2015年8月28日のブログで「とめ名に署名した立場ではっきり申し上げれば、とめ名は粗悪な圓生誕生の抑止効果までが役割で、拘束力などない」と書いた。これが妥当な解釈だろう。

 

その6日後の9月3日、圓窓・圓丈・鳳楽の3人が揃って七代目襲名を撤回して問題は収束した。六代目圓生三十七回忌のことである。

 

一連の七代目圓生問題とは結局「五代目圓楽が決めた“鳳楽の七代目襲名”を阻止したい人たちが、圓楽没後に行動を起こした」ということに尽きる。圓丈も圓窓も、鳳楽が七代目襲名に動かなければ自ら名乗りを上げることはなかっただろう。

 

それを複雑化させたのが、法的拘束力のない「止め名」の署名であり、また遺族の意志の不統一も大きな要因だ。だが問題の根本が「五代目圓楽一門と、それ以外の圓生一門との確執」にあったのは間違いない。

 

この確執にピリオドを打つべく動いたのが、楽太郎から六代目を継いだ当代の圓楽だ。

 

六代目圓楽は、2013年10月に圓丈が出版した『落語家の通信簿』(祥伝社新書)の中に「お囃子さんがいないので五代目圓楽一門会の若手は寄席の太鼓が叩けない」という誤まった記述があるのを発見、圓丈に直接連絡を取り「お囃子さんはいる」と抗議をした。

 

この連絡がきっかけとなって生まれたのが、六代目圓生一門合同の「三遊雪解どけの会」という落語会。第1回は2014年3月15日に国立演芸場で開催され、第2回は2015年7月31日に浅草演芸ホールの余一会として行なわれた。この六代目圓生一門合同による浅草演芸ホールでの7月の余一会は、翌2016年には「三遊落語祭」と名を変え、2017年7月31日にも引き続き行なわれているが、2018年の開催はなかった。

21世紀落語史

広瀬和生(ひろせかずお)

1960年生まれ。東京大学工学部卒。ハードロック/ヘヴィメタル月刊音楽誌「BURRN! 」編集長。落語評論家。1970年代からの落語ファンで、年間350回以上の落語会、1500席以上の高座に生で接している。また、数々の落語会をプロデュース。著書に『この落語家を聴け! 』(集英社文庫)、『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)、『談志は「これ」を聴け!』(光文社知恵の森文庫)、『噺は生きている』(毎日新聞出版)などがある。
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