akane
2018/03/29
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2018/03/29
今、確かに「最近落語を聴き始めた」という新規参入の落語ファンが多いのは事実。いろんな落語会の客席にいて見聞きすることから、それは実感する。
しかし、この数年で突然「落語ブーム」がやって来た、とは思わない。
20世紀末に低迷した落語は21世紀に入ると活況を取り戻し、今に至っている。
大きな転機が訪れたのは2001年10月1日。この日、古今亭志ん朝が肝臓ガンのため亡くなった。享年63。この訃報はあまりにも衝撃的だった。誰もが認める「ミスター落語」、当代随一の名人、万人に愛されたスター、「昭和の名人」古今亭志ん生の倅にして「名人に二代あり」を体現した天才……志ん朝を褒め称える言葉ならいくらでも出せる。正真正銘の「理想の落語家」だった。
その志ん朝が63歳の若さで亡くなったのは落語界にとってこの上ない悲劇だ。いずれは父の名跡を継ぎ、落語協会会長となって業界を引っ張っていってほしかった。
2010年に柳家小三治にインタビューしたとき、志ん朝の死に関して尋ねると、彼はこう言った。
「『なんで死んじゃうんだバカヤロウ!』と……志ん朝は、死んじゃいけない。あの人は生きてなきゃいけない。それはファンのためにじゃなくて、噺家のために」
志ん朝の死は、まさに「事件」だった。
そして、その「事件」を境に落語界と、それを取り囲む空気が変わった。
当然のように「これで落語の灯が消えた」とコメントした作家もいたが、意外なことに現実は逆だった。志ん朝の死という悲劇は結果的に、停滞していた落語界を活性化させた。数年後に爆発する「落語ブーム」は春風亭小朝の仕掛けたイベントやテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』等によるところが大きいが、それらも含めて、「すべては志ん朝の死から始まった」のである。
志ん朝の死がもたらしたものとは何か。
まず何より、マスコミに「落語」が大々的に取り上げられたということだ。
春風亭小朝は2000年2月に出版した『苦悩する落語』という本の中で、「今、落語が話題になるのは、高田文夫か立川流が絡んでいるときだけ。この10年間、もしも『笑点』と立川流がなかったら、落語がマスコミに取り上げられることはなかった」と指摘した。
放送作家でタレントの高田文夫は日本大学芸術学部の落語研究会出身。笑芸プロデューサーとして1992年に旗揚げした「関東高田組」には春風亭昇太、立川志らく、立川談春といった落語家が名を連ねていたが、自身も立川流Bコース(有名人コース)の真打「立川藤志楼」として90年代半ばまで積極的に高座に上がっており、実質的には立川流の人でもある。
立川流とは、1983年に落語協会を脱退した談志が自ら家元と名乗って創設した「落語立川流」のこと。東京に4軒ある寄席の定席のうち上野鈴本演芸場は落語協会のみ出演、他の3軒(新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)は落語協会と落語芸術協会の交互出演となっていて、立川流は寄席の定席には出演しない。
また2000年当時の『笑点』の司会は五代目三遊亭圓楽。1978年に師匠の三遊亭圓生が落語協会を脱退して「落語三遊協会」を創設、圓生没後は圓楽一門を除いて落語協会に復帰し、圓楽率いる「五代目圓楽一門会」(通称「圓楽党」)は寄席の定席に出演しない独立小団体となった。
当の小朝自身はマスコミに出ずっぱりではあったけれども、この指摘で彼が言いたかったのは「寄席の世界はマスコミに相手にされていない」ということだ。
だがその翌年、「寄席の世界」の頂点に君臨する古今亭志ん朝の名が、「死」という悲劇を伴いながらではあるにせよ、全マスコミを席巻した。その取り上げられ方は有名タレントしてではなく、あくまでも「古典落語の名人」としてのもの。マスコミは、彼の死によって「志ん朝の落語」が失われたことを悼み、悲しんだ。これが大きな意味を持つ。
「名人の早すぎる死」を悼む声の大きさに驚き、それまで存在すら念頭になかった落語なるものに初めて関心を持った人もいれば、かつては好きだったけれどいつしか聴かなくなった落語に再び目を向けた人もいただろう。「志ん朝の早すぎる死」という悲報が与えたインパクトの大きさは、忘れられていた「落語」を思い出させるに充分だった。
だが、それだけでは「落語ブーム」は来ない。デヴィッド・ボウイが亡くなって大回顧展が盛況となり、遺作が全米1位に輝いてグラミー賞5部門を獲得したように、志ん朝のCDやDVDが売れまくるだけだ。
それが単なる一時的な「志ん朝ブーム」、もしくは「物故名人回顧ブーム」で終わらず「落語界の活性化」に結びついたのには、理由があった。実はすでに、「機は熟していた」のである。
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